2011.08.17
お知らせの通り、13日から南三陸町でのボランティア活動を行い、昨16日に帰宅しました。内容も豊富なので、数回にわたっての書き込みになると思いますが、まずは、整理がなかなかつかないところで、行程にもとづき箇条書きでの行動報告からしたいと思います。内情に関してはまたの機会ということで。
◆往路状況
13日当日の朝、白河から矢板を中心に70㌔の渋滞というニュースを見て、この時期の選択はまずかったという思いが走った。しかし、考えて見ればここしかスケジュールはとれなかったのだからやむを得ないと理解するしかない。
ところが、実際は進むほどに渋滞も解消する流れの良さで、5時半に出て、途中2度の休憩を挟んで23時に到着した。道も2度迷ってしまったのに・・。
◆初日の活動
電話で聞いていた通り、朝8時半にボランティアセンターに出向く。
受付で新規と継続の区別がされており、新規は150人まで当日は受け付けると言われ、列に並んだ。なんと自分が最後の150番目だった。
同町新田(にいだ)地区までバスで送られてのガレキ撤去作業。猛暑の中での作業は、1時間継続もままならないほどきついものだったが、適度な休憩と水分補給でなんとかついて行くことができた。
9時半から3時半まで、昼食の購入もままならず(店もない)、水分だけで最後まですます。しかし、食欲もなく、じつは2日目も昼食をとる気持ちにならなかた。水分の提供が不足するということはなかった。
◆2日目の活動
前日終了時に、継続手続きをしていたので、作業にあぶれる心配はなかったことと、たった1日で気持ちに余裕ができていたのは不思議な感じだった。これは同行の2人、須賀議員と新井議員も同様だった。
この日は、センターのある地区とは湾の反対側にあたる津宮漁港での土嚢作りがメーンだった。朝礼説明で、最もきつい作業とニヤッと微笑む社協のリーダーの思わせぶりで、場が緊張となごみに包まれる。このリーダー、聞くところによると、この活動のために職を捨てて現地で奉職した人物だとか。まだ30歳前後と思われる好青年だった。
バスで30分ほどはあっただろうか。着いたところは、小さな港だった。グーグルの地図にも載っている港そばの民宿は跡形もなかった。そこでの土嚢作りは、まさに予告通り暑さ、重さ、単純さの3重苦でのきつい作業だった。30分やっては10分休むといったものだが、それ以上求められたら、強制労働に感じたかもしれない?? いや、それほどのものでしたよ、ほんと。
1袋60㌔程度の砂利をスコップで入れ、口を締めて定位置に運ぶものだが、40人ほどのメンバーがせっせと作業に励んだ。この土嚢は、同町の主力産業である銀ジャケ、カキ、ホタテ、ワカメ、ホヤといった養殖イカダのオモシに使われるそうで、多くのイカダは流されてしまったという。一からの出直しということだが、銀ジャケは10月には戻って来るそうだから大急ぎの作業なのだ。
3時頃には、埠頭に満潮の海水が溢れてくるので、作業終了。これは地震の影響で、湾を取り巻く南三陸町全体が70センチ以上沈下したことが原因だそうだ。
いろいろな形で震災・津波の残した傷跡は甚大なものだということは、現地に行って理解できることが多かった。
センターの戻って、息と気持ちを整え、すぐ脇の仮庁舎に出向いた。議会事務局で副課長さんと面談することができた。ここでの話はまた。