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No.2681 言葉につまる虐待連鎖

2015.12.09

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 前号の虐待ブログをアップした後も考えられない虐待が伝えられている。

生後3ヶ月の乳児に覚醒剤を飲ませて死に至らしめた親
◆2歳の幼児にタバコを吸わせようとした親・・・この親は確か罰金10万円

 どうですか・・・呆れて言葉もない、といった人も多いのではないかと思うが、よくもまあこんなことを思いつくなあと。
 実は動物の世界でも命をもてあそぶ事件が頻発している。頭を矢で射抜かれたカモは1羽だけではない。頭部を切断された鳩や猫もしかり、耳を削がれたウサギといった具合で、動物とは言えど異常なほどの猟奇的事件が絶えない。共生社会をめざして犬猫の殺処分ゼロ運動が各地で進む状況にあって、そうした残虐行為をするヤカラがいるというのもなんとなく不気味ではある。

 私は県議時代に児童虐待問題を筆頭研究テーマとし、知人の紹介で専門家を招いて党内勉強会まで実施した経緯がある。1期生ではなかなかこうした企画を提言実行できない面もあるのだが、ありがたいことに党および先輩議員も快く受け入れてくれたものだ。しかし、いじめと並んで事実解明と解決策への妙案構築がたいへん難しい社会問題であることをつくづく感じさせられた。
 若い親の無軌道ぶりが度を越している感は否めないが、数としてはひと握りなんだろうとは思う。されど一度判明すれば尊い命がすでに失われている結末も少なくない。
 データ的には、いっこうに減る気配のない児童虐待は、社会の発展の陰の部分が大きな要因であり障壁だと思うのだが、解決に向かう妙案奇策はないものか。

No.2680 後を絶たない連日の虐待事件

2015.12.06

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 昨今は、毎日のようにいたいけな子供が、虐待といういじめの行為を親から受ける事件が多い。

 一昨日だったと思うが、ゲームするのにうるさいからとゴミ入れの中に乳児を入れ、蓋をしたまま死に至らしめた事件があった。昨日は、16歳の女子の舌にたばこの火を押しつけるという虐待事件が発覚した。さらに今日は少年野球でキャッチボールの時に捕球ミスをした子ども数人を全裸でランニングさせた40代の監督が辞任したというニュースが入ってきた。

 乳飲み子をゴミ入れにという発想はどこから生まれるのだろうか。そして、二人揃ってゲームに興じることが目的だと・・・ふざけるな!と言いたくもなる。
 思春期に入った子どもが被害者になる例も少なくない。たばこの火事件は、実母が連れ合いと一緒にこの行為を継続的にしていたというのだから驚きを隠せない。この年頃を対象とした虐待事件では、鎖でつないで食事もろくに与えない家庭内監禁という事件も時折発生している。 

 通常言うところの親の心子知らずではなく、鬼畜両親の心を知らずに虐待を受けている子どもには身震いするほどの哀れを感じる。なんの疑問も持つことさえないかもしれないと思うと尚更だ。

 子育てにおける常識的なこと、そもそも子育ては簡単なことではないということを理解せずに子供を作る親が多くなっていることは事実であろう。いや、出来てしまったというのが正しいのかもしれない。人間として未成熟な若者が肉体的には先に大人になる心と身体のアンバランスが最大の要因だなのだろうと思う。ならば、子育て環境をしっかり整える必要があるのではないだろうか。地方創生も悪いとは思わないが、より詳細な部分で子どもに光を当てるような方策が考えられないものだろうか。
 貧困も虐待のひとつの原因と言われるが、福祉国家スウェーデンでは、妊娠期から就学期まで子育てをサポートする政策が為されているという。その結果、虐待件数も減少しているというのだ。
 先日、どこぞの論説で見たのだが、日本の児童虐待の実態から算出される失われる価値は1兆5千億円以上にのぼるそうである。
 

 さて、後者は体罰の部類かもしれないが、私の感覚では虐待の範疇に間違いなく入る。私自身は礼儀や思いやり、協調性が養われるという点でスポーツクラブでの修練は大いに奨励している。とくにチーム競技や武道などはそれが目的にもなっていると思う。ところが、プレー時の失敗やミスは成長の糧と考えることが出来ない指導者が多いようだ。
 日曜日の小学校のグランド・・・かなり遠くからでも怒鳴り声が耳に入ってくることがある。がなるなんてもんじゃない。怒り方、叱り方でも子供が素直に反省するようなものではなく、萎縮し、のびのび感が無くなるような作法が多い。自らのストレス解消策ではないかと思うことが少なくない。

 若親教育、指導者教育も含め、早く手を打つ必要性を強く感じる。

No.2679 定例議会はじまる

2015.12.02

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 少々さえない空模様に気持も湿りがちだが、議会は今が盛り??
 県議会は今日が定例議会の初日。各自治体でも一斉に開会している時期だが、幸手市議会は30日から始まった。
 

 なんと言っても、市長選直後の定例会ゆえ再選なった渡辺市長がどういった所信表明をしたかは興味のあるところ。残念ながらライブ中継を見ることが出来なかったので後で確認してみようと思っている。
 また、それ以上に毎度のことながら、一般質問がどういった状況になるかが最大の焦点と言える。

 それは、首長自身がどれだけ現状を把握しているか、また今後の幸手丸の舵取りをどのように考えているか。なんでも、渡辺市長は通告していない質問には答弁しないと明言しているということなので、そのあたりも2期目に入ったことで真摯な対応に修正して、自らの声をどれだけ発していただけるか注目されるところである。
 また質問をする議員にすれば日々どれほどの研鑽努力をしているかを最もわかりやすく市民に伝えることが出来る場である。しかしながら、冗長で自己満足的な質問や答弁調整ができている芝居がかった質問ではなく、市民がおよそ知らない部分に光を当てたり、真の意味で市民生活に関わる質問を心がけてもらえればなによりと思っている。

 そういった意味では、首長にしても議員にしても自らの能力を生の声で市民に示すことができる花の舞台とも言え、その動静は定例議会にあって最も注目すべき場面とも言える。
 実は、幸手市の一般質問は再質問は一問一答となっており、疑問点を深く切り込むことが可能な制度に変更されている。私の市議時代には再々質問までであったから改革という意味では一段の進歩と言える。

 ところが、県議会ではそうなってはおらず、掘り下げた厳しい質問が出来る状況にはなっていない。委員会審議でも同様だ。県議会の委員会質疑はまとめて1回で、議員間で発言時間のバランスまで求められている。それに対し、幸手市議会では気の済むまで一問一答が可能になっている。
 最も、あらゆる点で県と市町の議会は異質であるから、そこだけを問題として捉えるべきではないが、どちらにしても議会改革が求められる点はまだまだあると言うべきだろう。

 お時間の許す限りネット中継に目を向けていただければと思う。出来れば若い人たちがそうした行動を示してくれたら、どんよりとした政治状況にいささかの光が当てられると思うのだが・・・。 

No.2678 ガソリン価格はどこまで下がる!

2015.12.01

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 さすがに師走ともなると気温も低め安定になるのだろうか。

 低め安定と言えば、ガソリンの値段がここに来て下げ幅を大きくしている。
 全国的にも低価で有名な幸手市ジョイフルSSで112円となっているが、現在では、さらに安くなっているかもしれない。と言うのも、これに比べて通常2円以上の高値が常態化している我が家に近い大手SSが113円となり、数日前に比べ一気に5円下げているからである。

 産油国の駆け引きは、サウジアラビアを中心に値下げ傾向にあり、その影響でとくにロシアなどでは経済的に大きな打撃を被っているという。
 ガソリンの値段は各国まちまちで、サウジアラビアがだいたい1ℓ15円前後で推移しており、1ℓが5円もしないベネズエラのような国もある、逆に環境税が付加されるヨーロッパでは200円を超える国が少なくない。 
 日本では高値安定が続いているように感じるが、実際は世界の中で中間程度の位置にある。

 ただ、ここがよくわからない部分だが、日本でのガソリン税は1ℓにつき約54円となっている。民主党政権時に全廃すると言ってできないままに終わったあの税金である。
 したがって、1ℓ114円相場を仮定した場合、税金を除くと1ℓ70円が純粋なガソリン価格となる。ところが、実は今名古屋で特定の2社による安値戦争が勃発しているらしいのだ。その値段は、なんと日を追って激化し今や85円にまで急落しているという。消費者の立場とすれば、なんとも羨ましい限りだが、一体全体どうなっているのか・・・。
 85円のガソリンにも54円の税金はかかるのだから、実際の価格は31円となる。単純に考えて、この31円に仕入れ値と利幅が含まれていることになるのだが、ひょっとすると名古屋の競争は、双方ともに利益を度外視した意地の張り合いなのかもしれない。
 

 しかし、いくらなんでも大損をしてまでダンピング競争を続けるとも思えず、実際のところ、ここにいたるまでの間、かなり利ザヤを稼いでいたのではないかと思うがいかがなものだろうか。それは、まず元売りの権利権限が優先された利益確保が行われ、決算に過剰な利益を出すと社会問題化することから、一定の利幅を確保した後は販売店が段階的に恩恵を受けるといったことではないかと。
 いずれにしても、油は安いにこしたことはない。 

No.2677 烙印議員と有権者民意

2015.11.28

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 素晴らしい晴れ間が我が家の庭から室内まで暖かい光を届けてくれている。
 テレビもラジオも関東以南の紅葉の便りで賑わいを見せているが、北ではまたまた記録破りの寒波が、大雪と突風で住民を悩ませている。
日本の四季は悲喜こもごもだとつくづく思う。この点では良くも悪くも国土の広さを感じる。
 

 話は変わって・・・実は、数号前の兵庫県議の裁判欠席関連ブログにいくつかのご意見をいただいた。あのような議員を当選に導いた結果は、有権者にも一分の責任はあるという私の主張に賛同が寄せられているのだが、中には、候補者に芝居じみた当選ありきの選挙選を展開されたら、それを見抜けという方が難しいという内容もある。
 その理由としては、すべての候補者の人間的中身を知らされないまま投票日がやってくるのだから、評価基準がどうしても上辺のみにならざるを得ないというのである。

 確かにそういうことも言えるとは思う。
 しかし、ここで別の角度から。今年の統一地方選挙での現実の我が街の選挙について考えてみたいと思う。実際に自分自身が候補者として関わった部分もあるので少し手前味噌なところはあるが、一般論としてお読みいただきたい。

 近頃いろいろな知人と会う度に、幸手市長選挙の結果が話題になる。私との会話だからそれが持ち出されることはわからないではない。また、61票差という激戦が市内のみならず各地の有権者たちにも大きな関心をもたれたことが原因とも理解している。
 そして、一様に口にするのは幸手市の民意の低さに驚くというのである。それは、現職候補の行動の責任感や財政に関しての内容が新聞などで報道されたものの、結局は現職が勝ったことに対する有権者の倫理観に言及したものと理解している。外の人間にすれば問責決議案が可決されるまでに至った事実を新聞紙上で知ることにより重く感じていたようだ。
 そうは言っても、多かれ少なかれどの地方都市にもそうした無条件の選択基準が存在しているのは間違いないし、それを理解している人も少なくはない。しかし、それでも幸手は特別だと言うのだから恐れ入る。

 県東のある街の前回首長選において、管理職会議を遠地で実行したことにより、街に責任者不在の日が生じたことが選挙選の争点になった。結果、将来を嘱望された現職が破れることになったのだが、有権者は現職にきっぱりとダメ押しをしたと理解せざるを得ない。 
 何があっても不思議ではないと言われる選挙だから、そこだけに結果分析を求めるのはいかがなものかとは思うが、影響があったことは否めないようだ。

 それとの比較で考えると、縁故、つながり、しがらみといった候補者審査をハナから必要としない無条件の投票思考が、歴史的に存在しているという幸手市の実態は、近隣自治体に比して特に強いと理解されているようだ。これを負の遺産と言うべきかどうかは難しいが、身内は可愛いという心理を選挙に限ってぬぐうことが必要だと思うが、かなり難しいことだとも理解している。
 だいたい、候補者自体がしがらみにすがり、訴える選挙選を展開しているのだから言わずもがなである。大都市選挙との決定的な違いがそこにある。

 よく聴く話に、幸手市は昔から近代化に向けた行政課題が生じる度に、既得権益に関わる一部住民によりストップがかけられた経緯があるという。一つの例として、東北線(宇都宮線)は幸手市を通過する可能性があったという。詳細は深いものがあったようだが、その時代の政治は、これにどのように関わったのだろうか?
 それにより久喜市とのその後の発展度合いに大きく差がついたことはあきらかなようだ。

 政治と選挙の関係は複雑にリンクしている。中には、今の自分が楽しく生きられる政治を望んでいるという方がいるのも事実だ。がしかし、街を長期ビジョンで成長させたいのは多くの住民の思考であり、それは政治の責任でもあるのだが、選ぶ政治家によっては、それを阻害する要因にもなるということをどれだけの有権者が真剣に理解しているだろうか。

 数万規模の地方都市政治においてイデオロギーは無用だ。地方都市単位で、そこに取り巻く政治と選挙の関係は、30年、50年、100年先の未来像に多大な影響をもたらすということを強く認識すべき時代に入っている。 
 そういう意味において、私たちの1票はとても大事な街の財産だと考えられないだろうか。

 そうした観点から、野々村県議の当選に寄与することとなった投票心理は、選んだ側にも問題があるという意味で、全国の有権者の反面教師になるはずだと指摘したのである。
 選挙制度改革というのは1票の格差を問題視する以上に、社会変化に伴い、低落する投票率と民意レベルの引き上げ対策、並びに議会制度改革を研究すべき時に来ていると感じている。
 ただ、選挙権の18歳引き下げは、時期尚早という意味で私は今だに賛成はしていない。現在のままでは、この法改正が投票率のアップと民意の向上に結びつくとは思えないからだ。
 

No.2676 小学校の一つのスタイル

2015.11.26

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 行政課題も各種あるが、国の未来を支えるという観点においては「教育」が最大のポイントであろうと、私は考えている。そしてまた、こうした考え方に意を同じくする方と、これまでの政治活動を通じて懇意にさせていただけるようになった。ひたすら子どもたちの健全なる成長と学力の向上に向けて、教壇に立たれてきた方々である。

 そうしたことが原点となって、一昨日のことになるが埼玉県議会の文教常任委員会の委員長を含む3名の議員がさいたま市のある私立小学校を視察訪問した。私が紹介する形だったことから私も同行することとなった。
 校長先生と教頭先生による親切丁寧な説明を受けた後、校内施設と放課後カリキュラムの見学もさせていただいた。

 一言で言えば、公立小学校とは全てにおいて違うということになる。視察の目は、どうしても行き届いた施設に向くが、授業のあり方にも独創性豊かなシステムが仕込まれている。また、教諭の数の多さとそこから生まれる余裕等々、言い尽くせないほど異なる姿があることに驚かされる。
 確かに、データ的にも学力の高さがはっきりと示されている。

 私立であるからエリア限定通学制度でないのは当たり前なのだが、通学範囲は群馬県や栃木県にまで広がっており、それを苦にする子どもたちは皆無だという。それどころか友達に早く会いたいという気持ちから登校時間は早いという。夏休みなどでも喜ぶどころか友だちに会えなくなることがつまらないといった様子だという。したがって不登校も限りなくゼロに近い。

 もっとも、こうした高質高度なシステムは授業料の高さによって維持されているとも言える。だいたい親の年収が700万円程度は必要のようだ。そうした無粋な話とは別に明るく元気に学校生活をおくっている子どもたちの姿は純粋この上ない。
 カリキュラムで目に止まったのは、右脳開発のため実践しているピコ算盤なる授業があり、英語では、卒業までに大半の児童が読む、書く、話すことについては一定のレベルに到達するそうだ。したがって、公立の中学校に進学する子がどうしても少なくなるという。
 英語はセカンドランゲージとしてではなく文化として教えるという。つまり多言語ではなく多文化のひとつと認識させて授業に当たる。3人いるALTも固定化されており、リーダー格の人は日本人と結婚し、ローンを組んで家を購入しているそうである。授業のあり方について積極的にアイデアを提示してくるという。

 私がもっとも関心をもっているのは、自然や土と親しむ教育を心がけている点だ。ミニではあるものの水族館があることにびっくりしたが、それはそれとして、課外におけるネイチャーカリキュラムの実践は、教頭先生の考え方が生かされているものと思う。
 この教頭先生は、県東部の自治体の教育長を務められた方で、この先生を慕い、尊敬している現役の校長先生も数多くいる。そうした方々の話を伺う機会を持たせていただく中で、教諭たちとの接し方に独特かつ素晴らしいものがあることが理解出来た。

 番外の私にも質問する時間をいただいたので、校長先生に教頭先生のリクルートについて聞いてみた。曰く、人事異動が無いに等しい私立において、新鮮な息吹を取り込むには、常に圏内広くアンテナを張り巡らしているという。
だからといって、引き抜きをするわけではなく、この教頭先生も教育長から引いた時点でのトレードだったそうだ。
 数日前に、どこぞの小学校でイヤナヤツ+イヤナヤツ=ミナゴロシなどと掛け合わせで教えるとんでもない教諭がいた。反日プロパガンダを実践する教諭がいるのも現代学校現場の実態である。
 有能な教育者はそうそういるものではないが、確かな経験に裏打ちされた理想の教育現場づくりを実践されてきた、この教頭先生に私は注目している。まだまだお元気な方なので、本来は地域から手放してはいけない方だったのではないかとさえ感じている。

 

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