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No.2671 足腰は丈夫でありたい

2015.11.15

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 週末の雨は、平日と違いもったいなさを感じる。それでも今日の昼ごろ雨があがって気温が上昇したせいか、地域でよく知るおばあちゃまの散歩と出会った。いつものように手押しカートを押しながらだが「膝が日々悪くなっていく感じで、立っている感覚がないくらいなんですよ」とおっしゃる。カートを使えない家の中では、部屋間移動が散歩より辛いとおっしゃる。聞いてみてなるほどと感じる話が身近なところにけっこうあるものだ。

 趣味で会員になっていた写真クラブも退会したという。
 昼間は一人なので奥様と是非いらしてと言われたが、こうした身体で一人でいる不安さはいかほどのものだろうか。足の辛さに加えて寂しい毎日だろうにと思うが、これが多くの高齢者の実情なのかとハッとする。

 ところで最近、膝の調子が悪くて困っている方に多く出会う。実は私も30代後半に膝の痛さに悩み、会社近くの整形外科のお得意様になったことがある。
当時、初めて耳にしたヒアルロン酸を膝の上部に注射する治療を3ヶ月ほどだったと記憶しているが受け続けた。1週間に一回の間隔だったが最後までイヤでイヤで仕方のない注射療法だった。それに加えてお定まりの電気療法などのリハビリが別にあった。
 私は、首、腰、膝と人生の時折に人の3大関節に関わる治療で外科のお世話によくなった。その経験から思うのだが、人間は年老いても足腰だけは丈夫でありたいものだと痛切に感じている。ついでに言えば、次に目と歯だろうか。お陰様で、今はちょっとした工夫でほとんど関節痛はなくなったし、医者や薬の世話にもまったくならずにすんでいる。

 かのおばあちゃまはもう人工関節を入れる年齢を過ぎたと寂しげに言う。でも、いつまでも元気に歩き続けてもらいたいものだ。
 数年前に先立たれたご主人には新米政治家時代に温かい言葉をちょくちょくいただき精神的に支えていただいた。その時、脇で笑顔を投げかけてくれたおばあちゃま。まだ10年ほど前あれほど元気だったのに、80を越えると老いのスピードが一段と早まるのか。

No.2670 米中露がギクシャクしている時ではない

2015.11.15

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 パリで起こった無差別テロには絶句した。がしかし、ある意味予想もしないではなかった。
 パリ市内各所で発生した爆破テロは、ISの犯行と瞬時に感じたが、ISの実行声明が出されたことでそれは確かなところとなった。イスラム独特の自爆テロはなかなか防ぎようがないところから今後への対応の難しさを浮き彫りにした。
 そして、大規模施設に数万人の観衆が訪れるイベント時には、厳重な警戒対策が講じられるのではないかと思うのだが、どうしてカラシニコフ自動小銃を複数持ち込むことが出来たのか不思議でならない。ましてや、顔立ちからして分かりそうなものではないか。

 自爆テロについては、その計画性においてISは卑劣だ。
 昨年暮れのことだったか、イスラム過激派のボコハラムが200人前後の少女を拉致連行した事件があった。人数が人数だっただけに世界に打電されたが、少数を対象とした拉致事件は日常的に発生しているはずである。
 そうした少女たちに対してイスラム信仰を強要し、自爆テロリストの一員として教育している実態があるという。今回のパリでもそうした少女たちが自爆犯の対象にされているとしたら、まさに極悪非道な犯罪集団と言うしかない。
 また違う一面では、隊士たちの妻として子供を産ませ、組織拡大と未来のテロ兵士を養成するという汚れた未来思考を実践しているとも言われている。
 

 シリアで進むイスラム戦争は3分戦の複雑な状況だが、今回のパリ事件は、今後もモスクワ、フランクフルト、ローマといったヨーロッパの大都市を対象に実行される可能性は高い。見境いのないISは、万が一核を持ったらいったいどうなるかと考えただけでもゾッとする。もはや、相手はすべての国が対象と考えるべきだろう。
 過去においては、ミュンヘンで五輪の際に、そして数年前にはロンドンの地下鉄で爆破テロによる多くの犠牲者が出ている。ニューヨークやワシントンで起こった、あの9.11同時多発テロは今だに記憶に新しい。あの場面を思い出すたびに異様な身震い感覚に襲われる。

 中国の覇権主義による米中南シナ海の緊迫や、ロシアプーチンの強気路線への変更による米露冷戦再発が、第三次戦争の勃発かなどと騒ぎ立てる一面があるが、そんなことをしている状況ではない。今の状況は間違いなくイスラムの偽善者集団がテロを手段とした戦争集団と化し、世界を混乱の渦に巻き込み、歪んだイスラムで席巻しようと目論んでいると理解すべきだ。
 世界の主要大国が力を合わせてこの勢力に対峙しなければ、罪のない尊い人命がどれだけ奪われるかを真剣に協議すべき時に来ている。私はそう思うのだが・・・。

No.2669 大阪W選挙

2015.11.10

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 掲題の選挙選、ともに告示となった後メディアはその行方に触れはすれど、こちら東日本にまで現地の熱は伝わってこない。いや、九州など西日本でもさしたる内容は報道されないし関心も薄いようだ。

 つまり、局地的選挙戦の域を脱していないのだが、そこは天下の?橋下さんがリードして再生したばかりの「おおさか維新の会」が、W選とも制するか否かは興味があるところだ。
 なにしろ5年で衆議院過半数獲得、つまり政権を獲ると宣言しての選挙戦に挑んでいるので、その信憑性や橋本さんの引退宣言を信じていないマスコミは、そこの部分において熱く見守っているという感じである。
  

 私は、そうしたことを尻目に関東地区の維新の党所属議員たちは、今いったいどのような意志をもってこの選挙戦を見つめ、自らの方向性をどう定めているのかに注目している。
 泥沼の裁判にもなりそうな政党交付金の取り扱いをめぐる元身内同士の争いも、上層部ばかりが目立つだけで「おおさか維新の会」に所属予定の19名を除く40名弱の国会議員たちは、それぞれが複雑な思いでいることは容易に想像できる。しかし、今後の方向性を多くは示していない。

 我が地に近い同党の比例選出議員は、聞くところでは早々と離党して無所属に転じているという。国会議員になりたくて自民党を離党し、維新の会に吹いた風で当選し、それに早々と見切りをつけて今後の動向を見定めているということか。
 これが本当であれば、委員会への参加もままならない状況となり、質問は一切できないはずである。この世界ではステージが上がるほど無所属議員の活動の場は狭められていくようである。
 野党再編が叫ばれていることもあり、その実現次第でいち早く名乗りを上げることを目的としての離党という推測もある。なぜなら、新党への参加表明は遅いより早いほうが、その後の党内の位置取りに関係してくるものである。

 
 ところが、その野党再編も思いがけない共産党の働きかけがあって、生活の党と社民党以外はその対応に手をこまねいているというのが実情である。
 もとより、民主党は反対ありきの非建設的国会運営政党として反日リベラルの様相を濃くしており、イデオロギーを除いて共産党と変わらないとの評判が定着しつつあるので、再編のリード役を担ったにしても現実の状況を一変することは難しいと考えるのが妥当なところである。
 私は、民主党こそ解党して右・左の色分けをはっきりさせる方が、国民の理解を得られるのではないかと考えている。
 そうした再編が出来るかどうかだが、個々の信念と私利私欲が重なって簡単なことではないだろう。

 というわけで、この選挙戦はいろいろな角度から興味をもって見つめている。
 

No.2668 政学混同で大学の権威は守れるのか!

2015.11.07

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 平和安全法制は思わぬ波紋を呼んでいる。
 すでにご承知のことと思うが、よくよく考えるにつけ、驚愕すべき実態が京都の同志社大学で発生したことに疑問を禁じえない。

 同大学の学長選挙で、現職の村田学長が安保法制賛成論者として与党の推薦で特別公聴会に出席したことを批判材料とされ、わずか1期で新人候補の松岡氏に破れたというのだ。
 選挙は教職員約930人の投票によるものだが、私が恐ろしい事実だと感じるのは、その投票内容が公にされていないことだ。

 これは第三途上国や紛争状態の国の選挙と変わらない。選挙に秘密選挙など有り得ないし、松岡氏を担ぎ上げ村田氏を批判していた教職員は、報道によるとわずか90名なのだ。学校運営の、しかも公正さを最も重んじるべき学長選挙で不正が行われたのではないかと勘ぐりたくもなるではないか。

 村田氏はアメリか外交、安全保障政策論を専門としており、産経新聞「正論」の執筆者である。私も何回か読ませていただいたことがある。対中国外交において、日米安保強化は当然といった論説を展開している。
 イデオロギーは個人の自由である。しかし、今回の問題は大学の一部が選挙において思想的に偏向的批判を展開して、学長を更迭したも同然だ。
 まるで、同志社大学に教職員シールズが存在しているような左翼的運動を公然と行ったということである。こんなことがあっていいはずがない。

この同志社シールズが行った村田批判の内容は詳しく報道されているが、まさに左翼の論調そのものだ。
 山梨の高校で「安倍政治を許さない!」といったポスターを校内の掲示板に貼った行為に対し、校長が問題指摘したものの、逆にくってかかる女性教諭がいたという事実もある。
 教育現場の荒廃は、地域特性を有しながら徐々に進んでいるように感じるが、京都市という土地柄も、日本人なら誰もが好きな街なのだが、政治的には昔から左翼リベラルがしっかり根付いた街だと言われている。
 

 しかし、同志社大学が今回、学内選挙にイデオロギー闘争を持ち込んだ事件は、社会に与える影響は大きいはずである。より具体的には在校生や受験生に与える影響が少なくないし、同大学が偏った思想の温床大学に変質していく可能性も無きにしも非ず。
 同大学のイメージダウンはもちろん、これにより、全国の大学にもこうした風潮が増長してくる可能性は指摘するに充分な気がしてならない。
 とにかく、選挙結果は公開すべきである。

NO.2667 マイナンバー制度はこのまま進行? 

2015.11.07

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 昨日の№2666に質問メールがありました。

◆その小学生は何年生でしたか?
  昨朝、ご老人がおっしゃていたのには「君は何年生なんだ?」と聞いたということでした。6年生の男子だったそうです。聞いていたのに書き忘れて申し訳ありません。
 それにしても6年生にもなって高齢者を顎で使うなどとは・・・・・こうした場合、悪気がないとしたらそれが一番の問題かもしれませんね。

 さて、本題に入って・・・
マイナンバー制度はいったいどうなっているのやら。自治体のミスはあるは、詐欺もすでに多発。
 今日また郵便局員による不祥事が発覚。直接手渡ししてサインをもらうことになっているのに、ポストに入れて自分で勝手にサインしていたとう。理由は早く仕事を終えたかったらとか。理由が理由なので、マイナンバー制度自体に問題があるということではないかもしれないが、どうにも鳴り物入りで採用されたこの制度、どうも想定外が多すぎてスタートそのものが早計だったのではないかと感じる。

 政府肝いりの新制度であり、私も政権政党の一員ではあるが、今の状況であるならば、通知の受け取りは拒絶しないが、申し込みをしたいとは思わない。いや、とんでもない事態が発生しないとは限らないと考えると、とても実用する気にはならない。そんな気にさせる状態で見切り発車したことが問題だと感じている。

 それにしても、最近、組織のトップが複数並んで起立し「まことに申し訳ありませんでした」とこうべを垂れるシーンが多いとは思いませんか。社員教育の不足や倫理観の欠如が引き起こす事件がこれほど多いのも現代事情なんだろうか?
 トップによって組織は変わると言うが、幸手市はどうなんだろうか?
 どうも主権市民にとって市界不良状態が続くようで。

No.2666 頼もしい老人

2015.11.06

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 新日本風土記の音楽に魅されながらパソコンを開いた。最近のテレビは地デジに見るべき内容が少ないので、ほとんどBSに合わせることが多い。新日本風土記の他にも、ワイルドライフ、地球ゆうゆう紀行、グレートネイチャー、世界ふれあい街歩き、美の壺、空中散歩・・・・アガサ・クリスティーものや日本百名山も見逃せない。結局は録画しておく場合が少なくないのだが、それを見る時間がないので、外付けディスクがすぐにあふれてしまう。

 さて、今時の子どもたちが見る番組はやはり地デジ中心なのだろうと思う。その際、家庭内にいわゆる映倫なるものが存在しているかいないかはこどもたちの成長に大きくかかわるのではないかと思えてならない。ゲームにひたる時間も含めると、そこには私たちの時代とあきらかに異なる子どものディスプレイ世界がある。
 良くも悪くもというか、とくに悪い面についてテレビが子どもに与える影響は、その原点に、やはり家庭教育があるはずだ。そんな思いがしてならない。

 また余談が長くなった。
 今朝、登校パトロールしているところに、長年親しくさせていただいている80を過ぎたご高齢の方が話かけてきた。毎朝、あいさつだけで通り過ぎるので、どうしたんだろうと・・・ご老人は自転車を止めるなり、『枝久保さん、4丁目に公園があるでしょう。そこで昨日子どもたちが楽しそうにサッカーをしてる姿をながめていたんだけど、ある子どもがこっちに近寄ってきて「おじさん、こっちにボール来なかった?」と聞くもんだから「そっちの植え込みの中に入ってたんじゃないかな」と教えて上げたんですよ。そしたら、その子どもがなんて言ったと思いますか』と私に尋ねた。

 私は「丁寧にありがとうございましたとでも返事したんですか?」と返したら、少し顔つきが変わって「とんでもない! おじさん、あのボールとってきてと言ったんですよ。どう思いますか枝久保さん。なってないね、最近の子どもは。親の躾にも問題あるんだろうけど」とまくしたてた。

 普段は温厚で優しい礼儀正しい、私の大好きな老人が見せた怒りの表情は、とても信じられないくらいだったが、あくせくと高度成長に貢献した老人世代にとって、激減した地域の子どもたちの元気に遊ぶ姿は、残された自適余生の中で、ほのぼのとした感覚で眺める癒しの対象になっているはずなのだ。ところが、逆にストレスに結びつくという事実を知り寂寥感に襲われると同時に、なぜか申し訳ありませんという気持がわいてきた。

 さて、そのご老人、かの子どもに対してどうしたか?
「自分で取って来なさい! 自分ことは自分ですると教わってないのか!」と叱りつけてやったということだった。
 と、子どもは黙ってボールを取っていったとさ。

 「頼もしいご老人」私は、こうしたご老人も少なくなったように思えるのですが、皆さんはどのように感じられますでしょうか。

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