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No.2814 ASEAN情勢に影?

2016.10.20

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 タイのプミポン国王が崩御された。軍事政権による国家運営下にある同国ではあるが、過去の軍事革命後の混乱も落ち着いた安定的政治状況に戻すなど、その存在は絶大な国民の信頼の元に置かれていた。
 ワチラロンコン皇太子の即位が予定されていると言われているが、この皇太子はプライベートでの問題点が指摘されていることもあって、実は妹のシリトーン王女を国王にとの声も少なくないという。しかし、王位継承権は持つものの皇太子が次期国王の第一資格者とされており、シリキット王妃も皇太子即位を望んでいるらしく国民の思いは届きそうもない。


 タイはもともと親日国ではあるが、中国とも友好的な外交を進めており、中国の南シナ海問題では強い批判を控え温和な外交に徹している。2年ほど前に中国からの亡命希望者を強制送還したのも、国際協調を尊び、中国の強引な外交手法に抗うことは得策ではないとの判断によるものと思われる。

 そうしたタイの存在とは別に、フィリピン大統領による嫌オバマ、嫌アメリカ的発言が多く、中国に肩入れするような言動が目立つ状況にある。麻薬犯罪人の大量処刑に見られるように、民主主義に程遠い独裁者的感覚を持つ元検事ドゥテルテを大統領に選択したフィリピンは、ASEANにおける欧米連携国の代表的存在であったはずだが、その連携が揺らぐ可能性への疑念は拭えない。 

 本来であれば、就任後の外交で真っ先に訪問すべきはアメリカであるはずだが、ドゥテルテは中国を選んだ。中国マネーをあてにし、自国のインフラ整備を目論んでいるのは間違いないところであろう。
 何かにつけて沈思黙考熟慮型の人物でないという点でわかりやすい人物である。

 金に目がくらんで南シナ海問題で譲歩する可能性も考えられるが、国際裁判で中国を訴えたのはフィリピンであり、ハーグの仲裁裁判は中国の南シナ海開発のストップを示唆している。言ってみれば、フィリピンは中国に対して地域内最大の壁になる有資格者なのだが・・・。
 数百人の財界人を引き連れて18日に中国に着いているが、今日いよいよ首脳会談の予定となっている。今後のASEAN、東アジアの方向性に大きな影響を与える点において注目すべき他国間外交である。

No.2813 市政臨時特別説明会(仮称)

2016.10.17

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 幸手市議会9月定例会に請願1件が提出され、建設経済常任委員会に付託された。
 この結果については、議会の通例としてさもありなんという推測の範囲、つまり否決となったが、7,521筆の署名が集まったこともあり、委員会傍聴は盛況だったようだ。予算の執行に対して疑問を持つ市民が多いとわかっても市側の考えは頑なだった。通常はこれであっさり収束となるのだが、今回の問題は後述するがしっかり後にまでつながっている。
 

 約28億円を繰り出して幸手橋上駅舎を建設するという現市長の選挙公約への強行性に対して、今の幸手市における優先課題は別にあるということと、そもそも資金的に国からの補助金が予定の半分に減額され、その分一般会計から繰り出すという、いわゆる予定外の身銭を切る乱暴なやり繰りが、市民の問題意識を駆り立てるのは当然のことであろう。

 私もいたるところで言いもし、書いてもいるが、駅舎事業をやめるべきだとは考えていない。新駅の利便性を供与出来るのは幸手市民であると思えば、行政としても本望な課題解決ではある。しかし、そのために30億近い資金投入をするというなら賛成はできないということなのだ。
 私は10億から15億でも新駅舎に建て替えることは可能だと考えている。今、当初予算と異なる肥大化が問題となっている東京オリンピックのミニ版のようなことと思っていただければよいだろうか。

 まずは10mもの太さは半分にして東西自由通路を造ること! 駅舎一体型でなくともいい。そして、西口整備事業に遅れを出さないことが肝心だと考えている。これは幸手市一の危険道路として有名な、県道幸手久喜線の拡幅事業に直結していることを忘れてはならない。ところが、今回の計画変更では、なんとこの西口事業に14億円の予算減額をもたらしてしまったのだ。

 駅舎一体型の東西通路の幅を10メートルとしているが、なぜそれほどまでに広い通路が必要なのか。しかも5メートルにしてもわずかな減額にしかならないとの説明らしいが納得のいくものではない。
 大宮や仙台の駅ビル一体型の通路は外に出ればペデストリアンデッキという屋根無し通路である。幸手駅の東西自由通路も屋根なしでいいではないか。財政余力がついたら屋根をつけるという考え方があってもいい。
 そもそも、こうした見直し自体をしないと言うのだから、そこにも疑問、疑惑を感じるのは当然である。見直しをしたくない何かがあるのかと。

 それと、東武鉄道がわずか6千万円の資金しか負担しないというのも理解出来ない。もっとも、東武動物公園以北の日光線は観光的経営指針に変化している。それが証拠に、スカイツリーラインと名付けられて以来、幸手市に止まる通勤通学本数が少なくなっている。これも問題だ。 

 40年、50年前から行政が街の発展のために必要不可欠な重要事業に取り組む姿勢があったならば、幸手市では街の顔である駅周辺開発や道路事情はもっと違った方向性を街にもたらしていたはずである。しかし、それは平成の時代に入ってまもなく手遅れに近いこととなっていく。
 その意味では、政治が街を創り、造るのは間違いのないところで、時の執行権力が真摯に行政課題を優先順位に基づいて進捗させていたならば、幸手市の現状はまったく違うものになっていただろうとは多くの見識市民が言うところである。
 タラレバは言っても仕方ない後悔用語だとわかっていても、逃した魚か、あるいは逸した好機であったかは別にして、これまでの積み残しはやはり次世代に大きなツケとして残ったということではないだろうか。

 さて、この橋上駅舎事業の見直しを求める運動は、下記のように渡辺市長の説明を受ける場を設定するに至った。質問項目を市長あてに提出して、それに対して市長自らが対応するということのようだが、香日向小学校格安貸与問題での3度の説明会で紛糾したという過去からも、どういった説明会になるやら予測できない面もある。
 
 ひとつだけ、請願者側の論拠にこだわりすぎと感じる点がある。
 「駅舎に大枚の資金をつぎ込んでも、結局駅舎は東武鉄道のものになる」という主張である。確かに、厳しい財政の中で無理に強行する新駅舎建設ゆえに、それが東武鉄道のものになるというのは、納得のいかない感覚になるのは理解できないではないが、請願駅という宿命にあって、いつの世でも、どこの街でも駅はその路線を運営している鐵道会社の管理下に変わるのは当然のことと言える。その後の維持メンテナンスは鉄道会社事業となるであろうし、これを嫌悪していたらいつまで待っても永久に新駅は出来ないことになると思うのだが・・・。

 前述したように、駅を利用するのは当該自治体の市民であるから、市民の生活向上を意図した事業を自治体が進めずして民間鐵道会社が進めるはずもない。もちろん、駅舎新築が駅利用者の増加につながる、つまり地域人口が増えるのであれば鐵道会社にとっても魅力はあるわけで、援助度合いも違ったものになる可能性はあるだろうが、今の幸手市がどこまでその魅力を有しているかということに尽きる。
 そこは、東武鉄道と幸手市の交渉次第でもあろうし、首長の営業力に関わることでもあろう。
 

(仮称)市政臨時特別説明会(正式名称がわからなので)
日時:10月28日金曜日 午後7時~
場所:コミュニティセンター集会室
出席予定:市長および幸手市執行部
 もちろん、市民であればどなたでも参加出来るそうです。
 

No.2812 ボブ・ディラン

2016.10.14

 既報の通り、村上春樹氏またも涙・・かと思いきや村上氏も喜んだというボブ・ディランの文学賞受賞。私も瞬時の驚きが即時に喜びに変わった。歓喜という表現でもよいくらいである。

 ところが、受賞待ちの文学者をはじめその世界では戦慄と憤りに近い感想もあるという。曰く「彼のどこに文学作品があるというのだ」らしい。確かにディランには「ボブ・ディラン自伝」というのがブック物としてあるくらいだが、自由な発想に基づく文字表現の世界からディランが選ばれたと解釈すれば違和感はまったくないというのが私の感覚である。
 たしか、一時彼は「放浪の詩人」と言われたことがあったと記憶している。孤高のイメージもあったが、こうしたタイプの人によくある不器用な人だったのではないだろうか。文学賞と言うからには、小説に限らず、詩でも童話でも素晴らしいものは素晴らしいの精神で選ばれればいい。であれば、歌詞も立派な対象と理解出来る。
 

 なにより、フォークの世界にエレキギターを持ち込んで度肝を抜き、フォークロックという言葉とそのミュージックシーンを生んだ偉大なる音楽の父と私は評価している。ザ・バーズ、ザ・バンドといった優れたロックグループも彼により育てられたし、ブリティッシュミュージックにも彼の影響を受けたアーティストは少なくない。
 彼のメッセージは戦争や人種差別を憎むプロテスタントソングとなり世界に衝撃を与えたが、人物的にはおおらかな人柄のようで、有名どころのミュージシャンに慕われる証拠として彼らのフェアウェルや復活のコンサートに引っ張りだこの状況もあった。

 「We Are The World」というアフリカ飢餓救済へのメッセージソングがアメリカンアピールとして企画された時、ベラフォンテ、マイケル・ジャクソン・クインシー・ジョーーンズといった構想した人たちから最も参加を嘱望されたのがディランだったという。総勢45名の集合体が、いかにスーパーミュージシャンばかりであったとしても、ディランの存在あってのオールアメリカンであったことは間違いない。
 たしかに、ディランの存在はひと際威厳を放っていたし、彼がいたからこそこのアピールソングの価値が世界に広がったと確信する。
 この壮大なライブを時折見るたび、ディランの出番に注目し、感動するのは今でも変わらない。

 ただ、今回の受賞をディランご本人はどう思っているのだろうか。というのは、彼は2007年にピュリッツァー賞特別賞を受賞している。まさに彼の生涯にわたる主義主張にふさわしい賞だと思うのだが、だとすればノーベル賞でも平和賞がよりディラン的ではなかったかと思えてならない。これについては、いずれ本人のコメントが出されるだろうし、授賞式に出席するとなれば彼のファッションから立ち居振る舞い、発する言葉に世界が注目することは間違いない。よもや欠席などということがないことを願いたい。
 ともあれ、素直に今回の文学賞受賞を称えたいと思う・・・そんなことをディランのCDを聴きながら書いている。

 

No.2811 再発する大新聞の記事捏造

2016.10.12

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 大新聞による記事の捏造がまた発生した。企業コンプライアンスで業種を特定化するマスコミコンプライアンスという言葉はあまり聞かないが、平成時代に入ってのマスコミの読者を欺く報道志向は、国や社会の方向性を狂わせかねないと危惧している。実際に、従軍慰安婦問題では国際関係に大きなハードルが設けられたではないか。

 平成元年のサンゴ礁落書き事件や、戦後最大のメディア犯罪と評されている昭和57年以降約30年にわたり従軍慰安婦捏造報道を続けた朝日新聞しかり、平成24年には橋下大阪市長に対し、ハシシタのDNAをさかのぼり本性をあぶり出すと題して、同氏を「市議、府議を含めて人間のクズ」「部落」「ヒトラーより下劣」「ファシズム」といったワードで猛烈批判した週間朝日などは代表的な例だろうが、ついでに言えば、言葉の攻撃も朝日系10チャンネルの報道番組で見られたのはキャスター降板につながった。 

 今回の問題は、文字の暴力が今でも止まないことを愚かにも再燃した。
 新聞の過剰報道の裏事情は、中日、東京に限ったことではなく沖縄をはじめいくつかの地方新聞でも見られることで、今の政権や安倍総理個人を叩く姿勢は有権者に真実を伝える報道倫理から大きく逸脱していることが多い。

 
 ことは、中日新聞および東京新聞に掲載された貧困問題に関する記事でのことだが、要するに日本の現代社会の貧困状況はここまで広がっているという内容について、実態にない説明と演出されたカット写真で構成したのである。 
 なぜ、この問題で捏造する意図が組まれるのだろうかと考えれば、現代社会の貧富の差をデフォルメすることにより、アベノミクス停滞にイメージ付けたいのではないかと推測出来る。

 中日の編集局長は行き過ぎの報道を詫び、記者教育の徹底を約束した。社員か、契約委託記者かは別にして、報道の倫理意識と人間の心の問題に起因するものを、子どもでもない相手にそうそう教育出来るものだろうかと思うが、この事件はこれで終止符を打たれる。結局は、言い特、出し得という形に違いない。 

 こうした場面で感じることとして、詫びれば済むというものではないというのが報道の世界ではないだろうか。攻撃的、煽動的、恣意的・・・もっと言えばイデオロギー分野に乗り込んで社会の歪みを正すかのような仮面の裏に潜む、逆に歪みを増幅せんがごとくの心無い報道は許されるものではない。

 日常では、今だ最大の情報ツールとして信頼されている新聞の活字は読者の目に届いた瞬間、かなり重い位置づけを持つことになる。後から取り消そうが一度目にした文字のインパクトは、脳裏から消し去りにくいというヒトの仕組みに入り込む戦略にも感じられるが、いわゆる書いたもの勝ち、言ったもの勝ちという狡猾さが見え隠れする報道はいい加減にやめるべきである。

No.2810 市政30周年の不思議

2016.10.10

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 今号は地元幸手市に関する内容。いささか???と感じることがあってのことで、人によっては、また言いたいことを!と思われる内容かもしれないし、逆に同じ感覚を持たれる方もいるやもしれず・・・ただ、率直に感じるまでのことを書いているとご理解いただきたい。 

 広報さっての10月号が配布されて10日ほど経つ。この間、街中で多く耳に入るようになったことに、あの表彰はいったいなんだ?という声。やはり、ああして同じ市民である人々の名前が紙面に羅列されると、隅から隅まで目を通すのは人間の条理。別に羨望嫉妬の思いがそうさせるものではなく、自然と自分の知ってる人がいるかな程度のことで指差し確認的に目を通すことになる。 

 で、何が問題かというと市政30周年にあたり、市政の発展に貢献した人を表彰するという、その結果に対して、どうしてあの人がいないのという単純疑問や、この人がいてなぜあの人がいないのといった相対性疑問が誰の頭にも浮かんだということなのだろう。
 市役所にもそうした声が届いていると思われる。


 私も同様の思いは紙面を見て感じた。私もまあまあ知ってる範囲の議会関連で言えば、議長をされた方、5期以上議員をされた方でも名前のない方がけっこういたし、他の職性でもそこに記載がないがゆえに、かえって鮮明に名前が浮かんだ人が数人いる。
 そこで感じたことは・・・

1、選考委員会的なものを設置して、広い角度から検討したのだろうか?
2.毎年10月1日に行われている幸手市表彰式との兼ね合いはどう図ったか?
3.同じく消防特別点検行事での表彰とのバランスはどう図ったのか?
4.そもそも表彰対象の職性別に選考基準をどのように設けたのか?
5.同じ人の名前が複数記載されているのはなぜなのか?

 表彰を受けた方々は、確かに功績を認められる方なのだから私に何の思いがあるわけではない。あるのはただ、おめでとうございます! のみである。

 だが別の観点から感じるのは、例年恒例となっている表彰式と、たまたま同じ10月1日に市政のアニバーサリーイベントを企画して、その中に表彰を組み込んだ今回の手法は、はたして適切だったかどうか。中には、過去の表彰式ですでに表彰を受けた人たちが、再度選考されているが、今後も10年きざみで表彰するのだろうか?
 時の首長の判断次第ということになるのだろうが、こんな小さな街にもポピュリズムの風潮が意図されているとしたら問題を感じないではない。
 さて、幸手市民の皆さんの感覚はどういったものだろうか?
 

No.2809 見事なまでの開き直り発言

2016.10.08

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 民進党代表 蓮舫氏の二重国籍問題に関する無責任かつ白々しい発言を、今行われている国会での発言とリンクして考えると、その人間性に特有なものを感じざるを得ない。

 実は、性格は元々良くないとの評判も聞くが、瞬時の言葉のキレ、切り返しの能力が有権者の眼差しを惹きつけるのだろう。党にあってもそうしたディベート能力、演説力を認められてのことで、人間としての魅力が今につながっているとは思えない。
 口撃的に過ぎるため、過去の発言との間に矛盾を生じたり、相手を攻めている中で、いつのまにか自らへのブーメランにつながっていることが多い。
 口は禍の元の典型のようだ。

 過去と現在の発言の整合性を材料に相手を攻めるパターンは、自らのことにはおかまいなしの身勝手さを今の臨時国会で多々感じる。知力、弁力に長けているとの自信があってのことなのだろうが・・・。
 ところが、「見事なまでの変節ですね」「逃げないでください」といった言葉は、正に自分を戒めなければならない言葉だということに気がつかないようだ。
 

 つまり、国籍問題で二転三転の嘘の上塗りをし、パスポートその他で真実の盲点をつかれると記憶の曖昧さを持ち出す。さらにそれについて、維新の会に説明責任を問われると「極めて個人的な問題なので、これ以上の説明をするつもりはありませんと見事なまでの開きなおり反論。
 ならば、ここまで苦し紛れの説明を繰り返してきたのはなぜ? 最初から極めて個人的な問題として相手にしなければよかったではないか。
 

 これこそ「見事なまでの変節」であり「逃げさせていただきます」ではないか! 我田引水という四文字熟語そのものだ。
 国会、県会の議員は資産状況さえ公に示さなければならない立場にあり、極めて個人的という表現は、疑惑を突きつけられている現実に通用しない言葉である。あれだけの騒動があの一言で終止符を打つのであれば、なんのための騒動だったのか。
 こういうことを平気で実行してしまう人が、野党第一党の代表であり、総理になれる資格を有する人なのだ。
 こんなことがわからず国会発言をしているようでは、知力にも疑問を持たなくてならないし、国会議員としての資質に関わる問題だ。
 

 数号前に書いたが、富山県議会民進党の政党交付金不正受給が明るみになったときのインタビューで「政党交付金は国民の信頼の元に支給されている・・・」の発言があった。国民に配慮した物言いのつもりだったろうが、政党交付金しかり政治家の報酬についても(私もいただいていた立場ではあったが)国民の信任をはたして得ているのだろうか? 常にポピュリズム意識があるがゆえの言葉選びのミスで、オンブズマン関係者などからは眉をしかめられる発言である。
 どうもこのご仁は自信過剰ゆえか言葉に酔いすぎ、上滑りすることが多いという特徴がある。

 しかし、最後の見事なまでの開き直り発言に、マスコミはさしたる問題にはせず、自民党も追求しない様子はなぜなのか?
 国籍と議員資格の問題は、人道博愛、差別、ヘイトなどとは次元の異なる話なのだが、それに配慮したのか、それとも自民にも小野田議員が登場したことによるものなのかは不明だが、国益のための国会の在り方が、未来の日本にも関わるという観点からしっかり対処しておくべき事案であることは間違いない。
 

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