雨が無い! 暖かくて過ごしやすいのはいいが・・・野菜が育ち過ぎて収穫時期を速まらせるので2月頃に野菜不足が生じ、高騰化しないかという心配をする向きがある。なんでも度を超えると問題を生じるものだ。
度を超えるのは政治の世界でもあるようで、政治家に対する世間の信頼度は低下するばかりだ。この場合は度が下がるということになるのだろうか?
埼玉大学社会調査研究センターが定例化している政治選挙に関する意識調査の今年度の結果が発表された。毎回さいたま市民1000人を抽出して行われているこの調査は常にレスポンス率が6割を超える。今回は8月に実施されているが、コロナ関連への質問も含まれていて、政府に求める対策は全体で健康優先が73%、経済優先が26%となっている。内容的には60代以上では健康優先が8割を超え、18歳以上40代まででは経済優先が4割を超えている。リタイヤ世代と勤労世代の違いというと言い過ぎだろうか。
問題の、掲題にあげた政治家の信頼度では「信頼出来る」がまあまあ出来るも含めて19%、「まったく信頼できない」があまり信頼できないを含めて76%となっている。これが問題と感じるのは、そもそも高い上に前回が71%、前々回が69%ということで、政治不信が増殖進行形であるということだ。
国政を視れば、収賄、選挙違反、虚偽報告、権威主義、選挙目当ての組織や個人のパフォーマンス、公用車等の無駄遣いといった政治を忘れた政治家の実態が与野党かかわらずの噴出状態。加えて、政策議論よりはスキャンダル追及批判や言葉狩りに時間を費やし、国民生活を二の次にする始末。
地方では議員志望者が少ないことも社会問題化している。女性議員を増やせとか女性役職者を何割にしようとかの話もあるが、私は能力の個人差はあっても性別に個人差はないと考えているので、女性を何割にとかいう理論はさしたる意味は無いと感じている。有能な人であれば男女の比率は問題ではない。人生経験上から政治にも主婦で子育て経験のある女性が必要だという理論はわからないではないが、男性が女性の代弁をすることは可能だし、その逆もまた可能だと思う。男性の働き世代が、けっして報酬が多いとは言えない、しかも定昇の無い議員志望をしようとはしないからといって、リタイア族や女性の政治進出を理想だとか、これからの政治の在り方だと言うのはいかがなものだろうか。それは、本来の政治の質の向上とは無関係だと思う。立候補は法律に則った形で年齢の下限制限はあるが、それ以外はないのだ。誰でも我と思わん者は政治家になれる。
それよりも、前述した通り個々の資質の問題なのだ。なんの為に議員を志望したのかという問いが常に頭をよぎる。選挙では街のため、市民の為であったものが、議員経験も深くなると自分の為といったニュアンスが多くなる人も少なくないということだろうか。多数決の世界にまみれ、政治家でいることがいつの間にか自分の為と割り切る形で、信念が移り変わるのが政治の世界ということかもしれない。
議員である自分が言うのもおかしなものだが、人間としての資質能力に欠ける輩や、能力があってもその使い処が間違っているといったパターンもあるだろう。もちろん、当選回数とともに素質を開花させていく政治家もいる。
議会は大小かかわらず伏魔殿的要素を持っている。それは多数決によって与党野党に区分けされることと、収入面でも差異が生じる議会役職の存在に意味がある。これらに執着するのは、政権側にいれば要望実現の可能性も高くなり、役職と共に次期選挙に影響をもたらし、かつ見栄と誇りと同時に権威までをも保持できると思考する傾向によるものだろう。しかし、それは違う。
政治家が国家官僚もしくは自治体職員を下に見て、怒る、怒鳴る、恫喝するといったことなど日常茶飯事のようでもある。県議時代にそういう議員が何人かいたが、国会でも野党が官僚に対して行うヒアリングでは、感情むき出しで容赦なく口撃する場面が多いという。確かに公務員全てが働き者で国民市民の為に働いているとは言えない場合もあるだろう。しかし、それを言う前に自分の足元を照らすべき政治家が多いということではないだろうか。私自身、経験と視野はそれなりに深めたとの想いはあるが、いろいろなパターンの政治家によって、レスペクトしたり、反面教師にしたりで、日々是精進なのである。
76%の政治及び政治家不信が今後ますます深まるのか、改善されるのかはわからないが、政治が無くなることはない。
「奢侈政治、みんなで渡れば怖くない」だとすれば不信レベルは高まるばかりだろう。そうならない為にも、最も見本となるべき国会議員が襟を正してくれることが、地方の若者が地方の政治にまずは関心を持ち、いずれは大志を抱くことにつながるものと思うのだが、事はそう安易ではないとも思っている。