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No.2385 2382の続々編

2013.10.19

 教科書問題に関するメールが、ここ数日増えました。№2382を読まれた読者のご意見を、№2383で紹介したことによるものと思われます。
 というのも、独自性の高いユニークな発想だと感じたご意見を紹介したつもりでしたが、少し過激な内容だったようです。
 それ以降にいただいたメールの中には、異なる観点に言及されたものがいくつかありました。それらをまとめてみますと次のようになるかと。

「議員は自らの発言した内容について、名誉毀損などの法的対応にいたることもあるし、そのすべての責任を自らが負うことになっている。したがって、周りがとやかく言い過ぎるのはいかがなものか! また、低俗で品性に欠ける発言や倫理観のない発言、さらにはパフォーマンス発言等々については、有権者による厳しいお達しが選挙という場で与えられる。しかも、その身分保証は4年しかないのです」

 まさに正論! 私も第三者のご意見を引用する際、その内容や表現をそっくりそのまま引用していいかどうかは熟慮するべきと改めて反省しきりです。
 ただし! やはり実教出版の日本史教科書は国のため、青少年のためならずという考えに変わりはないのです。

No.2383 前号続編!

2013.10.16

 前号を書いてからまだ正味1日も経過していないのですが、かなりの反響があったようです。
 良くも悪くも、枝久保がこんなことブログに書いてるぞ!ということだと思います。いずれにしても、アクセスが増えるというのはブログ冥利につきるというものです。

 今日、産経新聞朝刊は、河野談話を発表する前段階として行われた慰安婦への聞き取り調査がずさんだったとの内容を、その貴重な資料にもとづくものとして報道していました。
 韓国との友好を深めるためにはという主旨で、韓国側の思考に照らして従軍慰安婦に関して日本側に問題があったとの謝罪表明をした河野談話事件。これが、決定的な事実もないままに外交上の観点から、相手側にお土産的にもたらされたというのが事の真実だったというのです。
ファイル 326-1.jpg 河野談話の内実は無理やり導き出された外交対応だったことが判明したのです。産経新聞は、これに先立ち河野氏にインタビューを求めたものの彼は応じなかったようです。
 当時、この慰安婦問題を取り扱った朝日新聞の記事は捏造であったことが今や広く知れ渡るところとなっていますが、この問題も前号の教科書問題に密接にリンクしている話です。

 
 今日、届いたメールにユニークなものがありました。
「政治が教育に中立でなければならないというけれど、何をどうすれば中立なんでしょうか? 口を出さないことが中立だとは思えないのですが、もしも、口を出すなということでしたら、それこそが言論の自由に反するのではないですか? 政治家に口を開くな、閉ざせと言わんばかりの中立を求めるご意見が政治家から出たとすると、その政治家は即刻辞めてほしいです」なるほど、そういうご意見も・・・少し手厳しいい感じですが。
もうひとつ・・・「昔よく、スポーツに政治が介入すべきではないということがあったと思いますが、サッカー場に他国を糾弾する垂れ幕を垂らすのは、立派にスポーツの場を利用しているのではないですか? それとオリンピック招致活動の最後の場面で、どの国も政治家が来ていましたよね。日本では安倍総理がもっとも目立っていたし、彼の発言が成否に影響したと思うのですが、これって政治とスポーツが分離していることになるのですか? オリンピックで経済効果○○○円というのも政治に関係のない話だとは思えないのですが、まったく矛盾だらけです」

 まさに言い得て妙ですな。万が一でも「政治は医療に口を出すべきではない」などとなったらどう思います? おかしなことになりますよね。
 政治家が、いわゆる族政治家としてパフォーマンスや利権の場にありとあらゆる場を利用することが多いことがわかって、今や尊敬の念を持たれる職業ではなくなったことも原因だと思います。
しかし、事あるたびに、美辞麗句、綺麗な言葉の言い回しにともなう美名が踊り、そこから政治が逃げているようでは日本再生などできるはずがないと思うのですが、いかがなものでしょうか。

No.2382 政治は教育に中立であるべきか?

2013.10.15

 「政治は教育に口を挟むべきではない」「政治は教育に中立でなければならない」といった、そ・れ・ら・し・く聞こえる、まるで格言のような言葉に疑問を感じる方はどれほどいるのだろうか? そして、それが恐ろしく危険な考え方だと理解している日本人がどれほどいるだろうか?

 もしも、教育がそんな意見の元に聖域化されたとしたら、いや、そういうことを聖域化とは言いたくもないが、現代教育事情が徐々に歪んでいく実態が感じられる状況で、日本の未来はどうなるのだろうかと思えてならない。
 私は、いつの時代でも、国を支えるリーダーは自国を愛することを原点にした教育から育てられるはずだと確信している。これは世界のどの国にも共通しているはずでもある。

 政治を介入させない教育が聖域化という美名のもとに続けられていったとすれば、それは共産、日教組、反日などの精神が深く刻まれていく偏向教育を助長させるだけに過ぎない。そうした教育がまともな教育だと信じて疑わない思考自体が国を貶め、減退させる元凶であり、とどのつまりは社会主義革命、共産革命への道につながるマグマと化すように仕向けられているのかもしれないのだ。
 それに手を貸す政治家も政治家だが、そもそも誤った歴史認識によって、今いかに日本が中韓によって貶められようとしているかに大きな問題意識を持っている日本人が少な過ぎる気がしてならない。
 国のために命を賭した先人の英霊に尊拝の念を持つどころか、大罪人に貶める教育もひどいが、私は日本の未来に対する危機感に最大の問題があると感じている。

 国を支える教育が誤った道筋に進められようとしているのであれば、それを正しく舵取りをするのが政治の義務ではないだろうか。だからこそ、中立という言葉がどこかむなしくもあり、意味が理解できないのだ。
 文科省の存在や県議会文教常任委員会などの存在を否定するに近い思考ではないか。
 埼玉県の公立高校8校が来年の日本史教科書として採択した実教出版の内容は、自虐感にあふれた捏造歴史教科書と言うべきものだ。その採択過程にも大きな疑義がある。「生徒のことを一番知っている現場の先生たちが選択した」とある。ならば教育委員会の主体性はどこにあるのか。文科省や文教委員会どころか、自らの存在も否定しているようなものだ。
 これらの高校で実教出版の教科書を元に日本史を教わる生徒たちは、どういった影響を受けるだろうか。
 歴史教育は、真実を元に自国に誇りを持てることを第一義に教えるべきであり、少なくとも、東アジアで日本は2,000万人も殺戮したなどといった空虚な歴史を叩き込むべきではないのだ。
 県議会最終日で、この採択の再審査を求める決議が可決したのは、そうした考え方の議員が多かったからにほかならない。

 戦争を知らない子どもたちに、正しい平和認識を教える必要はあるが、世界の近代戦争史にあって、最大の犯罪国家であったかのごとくの教育がなんになるというのか! 戦後70年近くが経過して生まれ出てる子どもたちに贖罪意識ばかりを持たせるかのような自虐教育はけっして日本の未来のためにはならない。

 最終日の県議会決議を受けて、今日・・あっすでに日が替わって昨日のことになるが、教育委員会の臨時会が開かれたようだ。しかし、再審査はしないという結論がもたらされたという。今後も、敗戦国日本、戦争犯罪国日本という止められた歴史に基づく教育が押し付けられることになった。しかも捏造と歪曲の歴史を前提にして、靖国に行くな! 慰安婦に誤り賠償しろ!という中韓の主張が間違っていないかのような教科書が採択されたことは誠に残念。たかが8校・・・いや、されど8校なのだと思う。
 

No.2309 朝のスクールガード

2013.03.22

 今日は、8時から党会議が浦和であったため、スクールガードはやむを得ずお休み。 
 昨年3月、統廃合で閉校となった香日向小の子供たちが、長倉小に通いだして1年が経過した。これまでブログで詳細を書いたことはないが、4月以来、毎朝よほどの用事がない限り議会当日でも、香日向交番交差点で登校する児童の見守りを続けている。
 実は、今日は同校の卒業式なので、式に出席してあげられないのが残念だが、それ以上に、6年生とは昨日の朝が最後の送り出し(お別れ)だったのに、なんとはなしに終わってしまったのが悔やまれる。「中学校でもがんばるんだよ!」くらいの声をかけてあげたかったなーと。

 子どもたちに同じ感慨を求めるべくもないが、最初のうちは「なに、このおじさん?」といった様子で接していた子どもたちが、月日の経つうちに、「おはようございます!」「行ってきます!」としっかり目を合わせ、元気な声を返してくれるようになった。そうなると、起きるのが辛い朝でも身体が起きようとするし、家内も元気に起こしてくれるので、子どもたちの顔を見るのが楽しみになってくる。この感覚って不思議なものだ。
 彼らも日によってブルーな時があるのがわかる。朝、出がけに何があったんだろう?と想像するも、わけを聞く間はなし、「元気ないぞー!」「下向いてるぞー!」と歩道を渡る後ろ姿に声をかける日々。
 その6年生とも昨日が最後だったかと思うとなぜか寂しいというのが偽らざる本音。

 4月から小学校に通う新1年生は、香日向全体で4人だという。たしかに閉校になったのも仕方のない状況ではあるが、何人であろうと関係ない。子どもたちには元気で毎日登校してもらいたいものだ。

No.2308 剣道部事件は氷山の一角?

2013.03.21

 昨夜、久しぶりにリラックスしてテレビをながめていたのだが、ニュース番組が映し出す映像を見て目が点になり、リラックスどころではなくなった。と同時に「なんだこれは!ひど過ぎる」と怒鳴り声を発していた。
 画面は、大分県の私立中学の剣道部の稽古風景なのだが、遠目から撮影されたビデオが伝えるのは、部外教師による暴力場面だった。まさに、殴る、こづく、蹴りを入れる、引きづり倒す、さらに蹴飛ばす・・・英語で言えば、フック、ストレート、キック、パンチ、キックといった感じか。これほどひどい中学校の部活での暴力は63になる私でも経験も記憶もない。怒鳴り声が響き渡り、部員の子どもがおどおどするといった部活はいくらでもあった。議員仲間には殴られて鼻血が出るなど普通だったと言う人もいるにはいるが、単に時代の違いだけではないような現代スポーツ事情がここにもあった。

 「いじめと体罰」は最近の教育現場のみならず議会でも盛んに取り上げるテーマだが、この大分の教師の行動は暴力以外のなにものでもない。これが愛のムチだとか行き過ぎた教育などという表現ですまそうとするなら、教育の未来ひいては日本の未来はけっして明るくない。
 私は、私が教師から受けたビンタやひざ蹴りなどは、怒られる私に責任もあった(けど、少しやられ過ぎだったと感じることもあったが)し、そういった教師こそ思い出に残っているので体罰100%許すまじとまでは思っていなかった。しかし、こうした現実を見て、やはり早いうちに体罰に一線を引くことが大切だと感じている。現代教師には、子どもの心や身体の苦痛を理解できる人が少なくなっており、この状況はさらに拍車がかかる可能性が大ではないだろうか。
 とにかく、これほど圧倒的な部員いじめの制裁暴力場面を見せられて怒りが込み上げる。体罰の定義は難しい。しかし、大分の教育委員会の見解を聞くと、これもまた人ごとのようで頼りないことこの上ない。
 現代事情では愛のムチでさえ考えものなのに、愛情のないムチを教育などと言わしめてまかり通ることが許されていいはずがない。
 体罰とは何ぞや? いじめとは? 愛のムチ? 暴力暴行とは? 
 教育や行政の現場任せではなく、国民的テーマとして考えていく必要はないだろうか?
 

それにしても、この剣道部の教師は部外教師として雇われたそうだが、日本の伝統的武道であり、人間形成に欠かせない精神を養ってくれるイメージの強いこのスポーツで何を身に付けたのだろうか? 私は昨年、剣道の試合中のケガで真夏のギブスに悩まされ、今後再プレーできるかどうかはわからないが、このスポーツがこよなく好きであることに変わりはない。
 少なくとも、教える立場であれば最低3段から5段程度の段位をとっていると思われるが、高段位必ずしも人格に比例していないということか。しかるに日本の女子柔道の五輪監督ですらと考えると、武道まで現代日本は倫理と常識を覆してしまったと言える。

No.2289 学級閉鎖

2013.01.30

 異常低温のせいかどうか、インフルエンザが猛威をふるい始めている様子。議会仲間にも知人の中にもそうした方が多くなりつつある。重症になると大人でも始末の悪いウィルス性ゆえ、子供ともなるとさぞ辛いことだろうと思う。
 
 昨年の4月から地元の交番のある交差点で子どもたちの通学を見守るようにしているのだが、ここを通る丁内の子どもでもしばらく姿のみえない子がいる。1年近く経ってようやく元気に「おはようございます!」と返事をしてくれるようになった子どもがいないとなぜか寂しい。遠目で見守る3丁目の列でも、2人ほどここ数日減っている。
 中学生でも、いつもおじぎをして通る女子が2日間通らない。別の事情ならいいと思う。

 リーダーの6年生に一昨日聞いた話では「ひと組学級閉鎖になってます」
 別のリーダーに聞いた今朝は、それとは違うクラスが閉鎖になっているという。7時20分に交差点を通過する子どもたちだが、風邪でも吹いたらその寒さは着込んでいてもかじかむ。中にはひざ周辺は素肌の子もいたりするので、見ているこちらが凍える感じだ。考えてみれば、私たちの時代はダウンジャケットやブーツなどという代物はなかったし、たしかに半ズボンの下は素肌だったかなと半世紀前の薄い記憶をたどる。

 学級閉鎖は子どもたちにとって寂しいだろうなあと思うが、私たち大人がその原因になっている可能性も無きにしも非ずと思うと、手洗いやうがい、ましてや予防接種などをしなさい!と偉そうには言えない。かくいう私も昨年の2月、インフルエンザB型と仲良しになった。その時の高熱が辛かったというより、熱を下げるための努力が辛かった。
 今以上に蔓延することなく、治まってくれればと願うばかりだ。

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