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No.2908 学校統廃合に思う

2017.08.08

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 お隣の久喜市で学校の統廃合が予定されているという。江面第2小(久喜)、小林小(旧菖蒲)、上内小(旧鷲宮)、菖蒲南中がその対象のようだが、いずれも生徒数が30年前の5割程度に減少していることがその要因らしい。
 上内小は昭和46年に約2,700戸の規模で日本住宅公団鷲宮団地が造成されたことにより同年開校した小学校である。正確なデータはないが、平成2年に開校した幸手市香日向地区が1200戸の集合地域で最高650名ほどの子供たちで賑わったことを考えると、上内小は1,000人以上の生徒数を誇った時期があるのではないかと思われる。それが現在91名という数にまでなっている。お隣とはいえ行政の実情はあまり知るところではないが、開校して現在46年という歴史が50年にまで届かない状況にあるという現実は人口減少という国家最大の未来問題からは一行政区の問題と考えられない。
 幸手市でも東小、さかえ第1小、香日向小が閉校になって久しい。香日向小はわずか22年で閉校となったが、閉校後の生徒たちのことを第一に、跡地利用のこと等もふまえると久喜市も辛く厳しい決断をしたのだろうと推察出来る。

 幸手市でも生徒数が100名を割っている小学校は知る限り3校ある。それらすべてに近年学童保育を設け、働くお母さんたちへの応援を主体に人口減少対策に踏み込んでいることは理解出来る。だが、広報さってを見る限り、残念ながら人口が増える方向にはないことがわかる。
 学童保育の予算化はその時必要と判断し、国の交付金を運用した行政施策ゆえどうこう言うものではないが、長倉小、行幸小、上高野小、さくら小といった学校に生徒数の増加が見られるものの、農村部を中心とする残る5校の減少傾向が増加に転ずることは難しいということか。となると、幸手市でもさほど遠くない時期に学校の統廃合が再び起こりうるか?
 合併により久喜と幸手は15万人と5万人という都市間格差がついたものの、子どもの減少という厳しい社会問題においては大都市部以外全国に広がっていることがわかる学校統廃合の実態である。

No.2890 ホタル鑑賞会

2017.06.13

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 1日の中での寒暖差が激しいせいか風邪を引いたという知人が増えている。
今日は梅雨らしい一日だったが、過度の乾燥は風邪に限らず現状の自分には大敵ゆえに40%を下らないようにしている。
 そんな折、気分の盛り上がるイベントのご案内をいただいた。今夕7時からおこなわれたホタル鑑賞会がそれ。3年前のことになるが、知人に「ホタルおじさん」として知られる方がおり、小学校でホタルを見る会をやってもらえないかと持ちかけたところ二つ返事で了解。
 早いもので、今年で4回目になるが、その縁あってお声をかけていただくのだが今夕楽しみに出かけた。網の張られた60センチ四方ほどのケースを教室に持ち込み、カーテンを閉め、明りを消しての鑑賞。年々親子参加者も増えており、約350匹の平家ボタルの優雅な光の舞にため息と歓声が飛び交っていた。

 物事にはなんでも専門的な内容があるようで、ホタルは唯一カワニナを餌にしていると思っていたら、それは源氏ボタルで、平家ボタルはタニシも食べるそうだ。他にも大きさや光り方の違い、成虫の寿命は1週間などなどいろいろである。間違いなく子供たちにとってレベルの高い自然科学の補修授業になっている。
 ゆっくり舞うホタルを手に取り、しばし見つめる子どもの姿はまさに興味しんしんといったところ。私たちの時代と違い、確実に自然との触れ合いが少なくなっているんだなあと、同行の保護者たちの姿からも感じた。
 7時という開始時間は光のイベントとしては仕方がないが、校長や教頭先生の生徒にホタルを見せて上げたいという純粋な教育者としての思いが感じられ、それ自体が私の感動の一つでもあった。トップが変わろうがいつまでも続いて欲しいものだ。
 ただし・・・ホタル風情は少し汗ばむ程度の陽気がマッチしているようで、それは光のイベントの持つ特徴と言えるが、子どもたちが満足すればそれで良しか。

No.2879 学校の対応がのんびり過ぎないか?

2017.05.09

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 県内で気になる出来事が起こった。川口市で中学生2年生の女子が歩道橋から飛び降りて亡くなった。本人は部活の人間関係で悩んでいたということで関係教師の数人に相談していたという。部活というから自動的に体育系と思ってしまったが、吹奏楽部で打楽器を担当していたという。そして、この生徒は親にも相談していたようで母親が学校の教育相談室に「娘の人間関係の悩み」を相談していた事実もある。

 市教育部長によると「相談に応じている最中だった」としているが、この生徒が部活をやめたいと先生に打ち明けていたのは1月だったという。マイナス思考の思い込みを自制心で遠ざけることが出来る子どもはそう多くはないはずである。悩み始めたら多少の説得では効き目はなく、押しつけの解決策を与えるだけでは短い期間には逆に悩みが増幅していることの方が多いことも考えられる。とくに人間関係はナイーブな問題であり、社会人でも言えることだがノイローゼの最大の原因となっていることは自身20年に及ぶ人事の担当経験からも理解できる。私の経験上は、そうした事実を確認すると即本人面談をし、上司確認をし、それとなく酒席に参加して多くの社員や対象社員と仲の良い同僚の話を聞くなどしたものだ。それにより、翌月頭には異動発令を出すこともあった。そういった手早さで対応したものだ。
 この女子生徒はなんとか頑張ろうと部活を続けていたが日頃の悩みは解消することが出来ないままゴールデンウィークの集中部活に参加していてとうとう・・・いじめがあったかどうかは定かではないが自ら命を断つ道を選択してしまった。悲惨この上ない学校関係の出来事であり、親の気持ちは量り知れない。
 企業組織の場合、適材適所という人事配置を理想としてその実現を徹底することが前提にある。ところが、個々の能力の関係もあって全てそうさせることの難しさが常にある。ある課の空気も生産性にも欠かせない存在と認められる社員はそこから異動させることの逆効果もある。ところがそれは人事の硬直化をもたらす。そこで能力のある社員はどこの所属にしてもしっかりやってくれるだろうとの思いで、硬直化防止と新鮮さをもたらすために異動をしてみるとそこで仕事内容もしくは人間関係で息詰まる場合がある。多方は人間関係の場合がほとんである。大人ゆえ忍耐するだろうと決めつけて問題発覚後もたもたしてると退職届けが出されることになる。申し訳なく可哀想な流れである。さりとてこうした事を皆無にさせる人事技術はないに等しい。人間関係の問題を生じる可能性の高い人間もしくはナイーブで精神的にか細い人間を採用しないことが肝要なのだろうが、これがどうしてなかなか。

 学校は企業と異なり異動がないが、真剣に考えた結果必要と認められれば学校替えがあってもいいだろう。子ども、とくに思春期の女子のナイーブさは際立って重く、深い。いや、そう考えて問題発覚後は素早い対応をしなければならない。もちろん、男子が対象でも同じことは言えるのだが、今回の川口市の場合はたしてどうだったのか。担任や部活顧問の人間資質もこうした場合に大きな力を持っていると私は思う。しかし、母親までが相談に乗り出していた事実を考えると、学校全体に子どもの悩みを軽く見ていたフシはなかっただろうか。子どもの自殺の原因は「いじめ」が多いとしてもこれまで発生した同様のことに強く感じるのはやはり学校対応の遅さであり役所的、官僚的という点である。教育相談室とはいったいどういう理念の元に設置され、どういった経験者が配置されているのかはわからない。実のある相談対応があったならばと思えてならない。

No.2797 教科書謝礼

2016.09.11

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 教育の世界では、こと教科書選定という部分においては企業論理が横行し、そこに小さな権益?が生まれるという暗部が長年にわたり常態化していたようだ。 

 この場合、既得権益は主に教師、しかもベテラン教師が対象となっている場合が多いようだ。
 理由は、教科書の改訂にあたって現場の声を反映させる目的でヒヤリングを実施することへの謝礼ということだが、それは表向きの理由であって内実は出版社側による継続的取引と新規売り込みのせめぎ合いというのが本当のところではないだろうか。
 察するところ謝礼の形態は、金銭、物品、接待ということになろうが、慣習的な面が実態としてあるやに思う。

 複数ある教科書取り扱い業者は一定のルートをもっているか否かでほぼランク付けされるということだが、未来永劫安定が約束されているわけではないのは当然で、ライバル会社も新規採用に向けて黙ってはいない。
 また一方で、教師も黙ってはいない。基本的にあれこれ注文をつけることが謝礼の源であるし、とくに学習指導要領が新たに実施される年度などは、会社側の営業も激しくなることもあり、営業担当にあれこれ講釈を並べて継続的な人間関係を築こうと努力するのである。うるさ型の教師は営業サイドにとってスミにおけない存在になることもあるだろう。
 しかしながら、対象となる教師が多いとは思えない。倫理観の高い教師は少なくないと確信しているので、多くは真面目に教科書改訂を思慮して提言しているものと思う。
 要するに、どの世界にも硬軟織り交ぜて様々な人材がいるということではないだろうか。

 また見方を変えれば、公立か私立かでも内容は異なる。公立は行政による日常管理機能が働く面もあるという点で、私立とはまったく異なる面がある。そもそも教師にとって働く現場が私立か公立かは人生を左右するほど違うものらしい。
 事業者側は、交渉を有利に進めるために学校側が持つしがらみをとことん追いかけることもあるだろう。選挙もしがらみだよりという一面があるが、この点、営業も選挙戦術と似たところがあるということか。
 その結果として、政治家にたどりつくことがあるかもしれないが、はたして推測の域は出ない。あくまでも可能性の話である。また、仮にあったにしても平議員ではない大物ということになるのだろう。

 以下は新聞報道によるものだが、教科書協会が、このたび謝礼の全面禁止を打ち出した。謝礼のみならず教科書無償提供といった資金力の差が影響する実態も堂々と行われていたということであれば、それは競争原理に縁遠い話であることは間違いない。
 ちなみに高校の教科書を発行している事業者は39社あり、無償提供していたのは5社で金額にして約2,000万円。
 そのうち、1,800万円が1社でまかなわれていたというのだから、この業界の古臭い体質を示しているものと思われる。

 こうした状況において、今回の全面禁止を受けても、その目をくぐり抜けてあいも変わらずという実態が発覚した場合、つまり新たに裏金という感覚で金銭物品が動いた場合、協会はどのような対処をすることになるのか。教育の世界だからこそ、この機会に全面浄化を期してもらいたいものです。

 

No.2793 繰り返す驚愕の未成年事件

2016.08.29

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 どうしてこうなってしまったのだろうか???
 現行、社会を揺るがす事件が起こるたびに政治の責任のように口角泡を飛ばす輩もなくはないが、それは解決への道を探るものではなく政争に近いものを感じてならない。
 まあ、それはさておき今の未成年者が加害、被害両面で悲惨な事件に拘わることが多すぎるとは思われませんか?

 児童虐待、いじめ、猥褻といった類で、時には命まで奪われる陰湿な事件が後を絶たない。
 こうなった原因を大きなくくりで考えれば、「社会の変化」ということになるのだろうが、戦後の復興期を「我慢」という意味を至極単純に受け入れていた子ども時代を経て(いわゆる私たち団塊の世代もギリギリそれに当てはまるわけだが)知性と理性を土台にして勤勉な日本社会に揉まれた世代が、世界に冠たる見事な成熟社会を技術イノベーションとともに築き上げた。


 ところが、それを勤勉を保ちつつ謳歌する期間を通じていくうちに、いつしか豊満社会を迎え、その飽食にどれほど親が身を委ねたかにもより、子どもの幸せはいかにあるべきかという子どもの成長に対する価値観に違いが生じていった。資本主義経済の波に乗り遅れたり、無縁だった人たちは、また別の観点から子育て教育の壁にぶつかったやもしれぬ。
 ともあれ、価値観の違いは、健全な大人へと形成されていく我が子の育て方に若干の差異を生じ、良からぬ軌道へとにはまっていく流れがあったように思えてならない。戦後71年、すでに5世代を有する家系もあるのだ。
 我慢が出来ず、思いやりも持たない自己優先人間が、ことに平成に入ってから増えている?・・・はたして考えすぎだろうか。

 断っておくが、これはあくまでも推測の上での一般論である。世の中千差万別、子どもの世界はひとくくりの論理では語れないことは重々承知している。たとえば、昔はじじばばとの同居で、そのじじばばが準教育者的役割を担ってくれた家庭が多かった。今ではそれも少なくなっている。これも核家族化という社会の変化のひとつとしてあげられる。ネット社会が子どもに与える影響などその最たるものではないか。

 現代の学校は人間性を養える場ではあるが、養う場ではない。言いたいのは、昔は人間教育の領域まで介入してくれた教師もいたが、今はどうだろうかということである。
 小学校までで考えると、大半の子どもは親の背中を見て育つ段階でもあるから、基本は家庭教育が「我慢」と「思い遣り」を中心とした人間教育の主たる戦場であり、幼稚園、小学校は基礎学力プラス集団生活での規律心や社会順応性を身につける場とわりきって考えてもいいのかもしれないと思う。
 もちろん、この二つは並行的に必要なものとは思うが、今の親たちは学校教育に人間教育を委ねることが多いのではないだろうか。お母さんも働きに出ると疲れも積み重なるだろうし・・・子どもと向き合える時間が勉強を求めること以外にどれほど持てているのだろうか。ゲーム社会の進展も子育て受難時代に一役かっている部分もあろうかと思う。

 父親は原則土日以外は子供と接する機会は少ない。職種によってはほとんどない場合もあるだろう。お母さんの存在は重いのだ。我が家も振り返ればそういった家庭のひとつであった。
任せっぱなしとまではいかないが、学校との連絡事はすべて家内が担当し、私は授業参観に出た試しがなかった。出られなかったのだ。

 中学生になると家庭以外に興味が深まる。受験という試練も生じる環境が激変する時代だが、それを乗り切ることへの自覚の有無もしくはレベルによって、努力や精進という人間としての付加価値が本格的につく大人社会への参画準備時代。高校、大学と進むうちにその付加価値の差が就職という段階で人生全般に関わる形に特化する。
ただし、そこですべてが決するのではなく強い意志を発露として、やり直し、再チャレンジへの可能性が日本社会にはある。

 
 親に与えられた豊満生活が身についた子供たちは、当初世代は理性を働かせる力を有していたものの、そこから数世代進む中で、ごくわずかな確率であるとは思いたいが、「我慢」が出来ないどころか価値を共有出来ない対象に対して「キレる」という単純感情動物へと後退している。その身勝手ぶりは、ほどほどを身につけていないことから、陰惨な事件をいとも簡単に現実のものにする。
 最近、未成年同士での殺人事件やいじめによる自殺といった悲劇がたびたび発生する都度、今と異質の昔をアウトプットする人が多いのではないだろうか。

 
 残念なのは、オリンピックの場での選手たちの躍動ぶりと鍛錬の結果のパフォーマンスに感謝と感動をもらったばかりで、青少年にとってのスポーツの位置づけが高まったかのような風潮もあるのに、深夜に遊び呆ける子どもたちによってたかってのリンチを受け、命を落とす子がまたまた・・・。
 怒りと悲しさで身震いがしてならない。

 この号の私見はほんの断片に過ぎない。子育て教育論の本来は、より深い考察が必要であることは言うまでもない。語れば本のひとつやふたつにはなるやもしれないことをご理解の上ご一読いただければと思います。 

No.2792 つまらない女にならないように

2016.08.24

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 オリンピックが終わると同時に、民進党の代表選に話題を集中させたいかのような報道が、かのマスコミ群によってかまびすかしい。 

 痩せても野党第一党であるから、国民も興味を示すべきだとは思うが、誰がなるのだろうかという野次馬的な関心度は高くとも政治の向上という観点から見つめている有権者は少ないのではないだろうか・・・。

 今夜の報道では前原氏が出馬を決めたようだ。何らかの局面打開を図らんがための出馬なのだろう。ただ、この方も過去の発言からは信念より都合を優先する方だと見受けている。
 そんな中、蓮舫さんが有り余るボキャブラリーとユーモアを発揮したかったのかどうか、言葉の使い方で顰蹙をかっている。いや、実は日本語の何たるかを分かっていないのではないかと感じることが大言造語のきらいも含めて何度もある。
 あろうことか、現代表で支援の声をもらっていた岡田代表に対して「岡田代表は大好きです。ただ1年半一緒でしたがつまらない男だと思いました。人間にはユニークが大事ですが、私にはそれがあります」とやった。場所は日本外国特派員協会でのこと。

 民主党政権運営時に仕分けの権化と化した彼女は、「なぜ1番でなくてはいけないのか。2番でもいいのでは」と発言し物議をかもした。スーパーコンピューターに関してのことだったが、サイエンステクノロジーやイノベーションの重要性を理解していないと批判を浴びた。
 仕分け精神で満々だった当時だからわからなくもないが、視野の狭さを示した発言と世間は見た。

 基本的にエキセントリックかつ上から目線の人物だと見ていたが、まさにそれを地で行く発言だった。民主党は自民党以上に縦社会に厳しい政党だと聞くが、それを平に改善しようという腹づもりだったのかどうか・・・岡田代表と同格またはそれ以上のワードで代表への感想を発した。まるで友達感覚だが友達でも言わない言葉だ。
 自分の発言は万民に受けるといった思い違いがあるのかもしれない。
 民進党の女性議員には、こうした感情の昂ぶりでは引けを取らない方が多い。辻元清美さんや山尾志桜里さんも同タイプだが、この二人、攻めるのは得意だが、守るという面ではいかがなものか。代表と政調会長がこの中にあり。 民進党の人材不足もここに窮まれり‼️ではないか。
 

 蓮舫さん、批判に対してユーモアを理解してもらえると思ったのにと言ったようだがそれは見識が甘すぎるというものだ。
 つまらないという言葉の意味に裏の意味は無い。つまらないものはつまらないだけのこと。それをこれから代表選を控える本人が、現代表をそんな言葉で揶揄することがユーモアだと認識すること自体おかしいし、言われた岡田さんにしてみれば顔で笑って、心でなんとやらの面持ちではないかと思う。

 言葉は重い。時に人を自殺に追い込む凶器にもなるし、その逆もある。
 言論の自由を殊更に叫ぶ傾向があるが、自由とは何でも口にして良いというものではないのは子どもでもわかること。言ってはならない言葉を吐く前に頭で咀嚼する力がないととても国家の第2政党の代表などおぼつかないのではないだろうか。万民の反面教師にならないよう願いたいものだ。

 

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