2020オリパラのテーマに多様性がある。ダイバーシティなどという表現は最近つとに見なくなっているが、個人間や集団間に存在するマイノリティー感や性差といった価値観に左右されない社会という定義だそうで、五輪の開閉会式を観た限りでは、何がそういったことを示しているのかはっきりわからなかった。それ以上に、復興五輪という一方のテーマは、一部競技を福島で行ったことだけだったのかと感じている。
私は、多様性が人種・民族間融合、男女均等といった内容を意味する表現であるならまだ理解できるのだが、今ひとつ、現実の世の動向に整合性を見いだせないでいる。と言うのは、このテーマが差別を無くすという原点の思考を訴えるあまり、別の差別を生んではいないかと危惧するからである。左派系もしくは全体主義といった主義思想が国家を征するとどういったことが起こるかはあえて言うまでもない。それは世界の歴史において、戦争自体は最大の悲惨だが、進軍勝利者によっては人の命に価値を持たない勝者の無慈悲な理屈がまかり通る。このことと現世の多様性を同等比較は出来ないが、寛容性を求めながら非寛容社会になってはいないかと思うのである。
昨年11月、DHCの吉田嘉明会長が在日コリアンに対してヘイトに値する発言をしたとNHKが報道した。これに端を発し、つい先日のことになるが同社の化粧品のキャラクターとして使われているムーミンの管理会社が契約停止を決定したという。理由はオンラインによる署名運動によって本家本元のムーミンキャラクターズ社に抗議の声が届けられたことで、同社が契約打ち切りを決定したのである。さらに、この運動が国内の大手販売店などに及び、コンビニによっては商品撤退が進んでいるというのだ。恐ろしいことではないか。
何が恐ろしいかと言えば、同社を徹底して排除排斥することは民間会社抹殺運動ともいうべき事態を意味するからだ。この会社には約3,000名の社員がいる。家族も含めれば1万人近いし、関連会社もあるだろう。
人種差別だ人権問題だという社会正義が別の人権や差別問題を生んでいると言えないだろうか。いや、生んでいると私は思うし、そういう逆差別問題があまり問われることがないのも考え物だ。
問題は発言した社長にあるのであって、個人を問題視する運動を起こすのであればなんとか理解できる。しかし、商品の不買運動は逆差別と言える面があり、危険な社会への変革につながる可能性もある。
これもわずか数日前の話だが、韓国の地下鉄に次のような広告が出されたらしい。「日本人を殺せ」
韓国は五輪の時も選手村宿舎のベランダから反日運動と思われる垂れ幕を流したことで顰蹙をかっている。本国からの指示ですぐにとりはずしたようだが、反日のすさまじさは徹底しているし、正に非多様性、非寛容国家言える。
ここで、感じる問題がもう一つある。この二つの出来事に対する日本の報道は、前者DHCには各社が一斉に批判的報道を、後者は伝えるメディアが少なかった。DHCのようなナイーブな問題は、国会で野党が政権批判の為に利用するパターンが相場となっている。
平和な現代に投げかけられる多様性の理解の仕方では、戦争ほどではないにしろ、一種のいじめ、虐待、差別が、排斥や抹殺運動という形で起こっているように思えるのと、SNSは恐ろしい情報ツールだということをつくづく感じる昨今である。