団塊の世代の末弟に位置する私としては、ここまでの人生で印象に残る著名人、有名人たちの訃報に接する機会が多くなったことを実感している。同窓、同僚はもとより後輩たちの死に向き合う心も持ち合わせていないとならない年代になったということなのだろう。
昨年も多くの著名人が亡くなった。そして新年明けて、好きな俳優だったシドニー・ポワチエさんが94歳で天寿を全うされた。「野のユリ」や「夜の大捜査線」が代表作と言われるが、私は大学生の時に観た「招かれざる客」が忘れられない逸品である。白人家庭に生まれ幸せに暮らすお嬢さんが、ポワチエさん演じる医師と恋に落ち、ある日我が家に連れて帰る場面。スペンサー・トレイシーとキャサリン・ヘップバーンという大俳優が演じる両親の驚きと葛藤は、アメリカで今でもくすぶる人種問題をわかりやすいシチュエーションでストーリー化した名画だ。ほとんどがこの4人の場面に終始するが、医師の両親も息子が白人の娘と結婚することに心が揺れる。特に両家庭の父親が子どもの幸せを願うという意味での結婚許諾に悩む姿が思い出される。
もうかなり前のことになるが、テレビでこの映画に再会して知ったことだが、両親役を演じたトレイシーとヘプバーンは私生活でも長い間事実婚の関係にあったという。この二人をこの脚本の両親役としてキャステイングしたことがアメリカらしいなと感じたものだ。
私は中学生の頃に映画とロックに同時に目覚め「スクリーン」や「映画の友」「ミュージックライフ」といった月刊誌のトリコになったものだ。毎月は買えないこともあったが、オードリー・ヘプバーンが表紙を飾ったり、彼女の特集が組まれていると小遣い前払いをせがんで本屋に飛び込んだ。ヘップバーンとビートルズは大切な青春時代のアイドルだった。
「招かれざる客」は人種問題に揺れるアメリカで、日常起こり得る問題を取り上げたファミリードラマなのだが、母親役ヘップバーンはアカデミー賞主演女優賞を獲得し、父親役のトレイシーも男優賞にノミネートされるほど当時のインパクトはかなりのものがあったようだ。
ポワチエは主役扱いではなかったが、映画が訴えるコンセプトには欠かせない存在だった。今、まさに多様性が問われる社会だが、アメリカ映画史における多様性を大陸全土にアピールした名優だった。
私は、多様性が人権・人種・平等・差別・ジェンダーといったワードに絡めてメディアも多用する時代になったことを理解はするが、それを文字や言葉で声高に叫び、デフォルメし、それに逆行する疑いがある主義主張を言葉にでもしようものなら徹底的に叩くような世の中の動向にはどうも釈然としない。そもそも、多様性を声高に標ぼうするメディアの現代風潮にはどうもなじめない。
こうした問題への対応は、75億人それぞれの人の理性や道徳観に由来するものであって、けっして強要するものではない。また、人には喜怒哀楽の感情とそれに関わる形で好き嫌いの感情もあり、すべからく同じ土俵で測れるものではないと思うからだ。嫌いだと思う感情が口をついて出ると、それは差別だと主張する組織層があることにも違和感がある。
ただ、一言で言えば、「人権」とは何か!についてわかりやすく理解できる幼少時代の情操教育が日本では足りないのかもしれないとは感じている。それでも中国共産党や金正恩及び数人の国家元首たちが持つ人権意識と比較すれば日本人の自治能力は優れているのではないだろうか。