オリンピックが17日間の熱戦の幕を閉じた。もう、我が身が命ある間に自国での開催は無いと思うと、なんだかんだ物議を醸したが、やはりスポーツイベントの最高峰であるオリンピックには得も言われぬ興奮と感動を拝受した。観客がいようがいまいが、選手たちのほとばしる汗と涙は、ここに至るまでの厳しい修練の集大成として集中するからこそ観る側の心をうつ。
個人的には、開会式、閉会式ともにIOC、五輪委員会、プロデュース会社、プロデューサー、NHK・・・何を伝えたかったのかが今一つ理解できなかった。出来栄えうんぬんとは違うスポーツとの関りという意味で、膝を叩くほどのマッチングが感じられなかった。人権問題、ジェンダー問題に多くの人が意識するようになったと評価する知識人もいるが、五輪にそういう役割を求めることがはたしていいことなのかどうかと思えてならない。
多文化共生、多様性と調和を基調テーマとした五輪であったが、それをどう理解するかは人それぞれに全く異なるはずであり、それこそ強要できるものではない。閉会式のアナウンサーのコメントもそうしたテーマに関して原稿を整え、画面とは切り離す形で読み切ることに徹していたように思う。ウポポイアイヌの場面では外国人にどのように理解してもらおうとの思いだったのか。たしか、この閉会式は選手たちに対する慰労の意味で日本の文化イベントを企画したという説明だったが、本当に慰労になっていたのだろうか。先に挙げた企画組織の自己満足になっている一面が何割かはあったと思うのだが・・・。
そもそも、多様性や多文化共生を、こと五輪という場でおいてあえて唱えることなのだろうか。BLM運動を主体とする人権問題も、よくよく考えてみれば、世界の国々で黒人選手が代表になっている例は枚挙にいとまがない。いつの間にか自然と受け入れているのが現実ではないだろうか。日本でもそうした選手は各分野に存在する。いずれも日の丸と君が代をバックに全力を尽くしてくれているのだ。観る側として、支える側としてそれを応援し、見守るのは当然なのだが、それを改めて意識しろと言われているかのような在り方こそ純粋なスポーツイベントにそぐわないと感じるし、あえて人権問題として世界の祭典に持ち込む必要があるのだろうかと思う。まして、中国やロシアの人権問題に触れるわけでもなく、たまたま亡命希望の選手がいたベラルーシの独裁政権の実態が浮き彫りになりはしたが、それに前述の主催者側組織がなんらかの対応をしたかというと、何も手を出さずにいたというのが実態ではなかったか。受け入れを表明したポーランドの政治姿勢が際立って見事に感じられたくらいだ。
閉会式当日に至っても、五輪反対プロパガンダデモを国立競技場周辺で行う人たちがいたが、利権だ、なんだと言っても、地球規模のイベントを開催するのであるから、大きな資金が動くことは当然と言える。私個人的には、1964オリンピック時にアマチュア五輪にこだわった名物会長のブランデージ氏の存在が忘れられないが、開催ごとにプロ選手の参加が認められることになったのも、ショーアップ五輪につながる理由の一因だと感じている。
古い人間なのだろうが、たとえそう言われようと、開会式も閉会式も1964東京五輪が2020より記憶に残ると感じている。あの古関翁のオリンピックマーチも編曲しないオリジナルの素晴らしさを改めて知った。
閉会式直後の今朝一番のSNSニュースに菅政権の支持率が28%に下落したと報じたマスコミがあった。あえて社名は言わないが、海外から日本の対応のすばらしさに賛辞と感謝の弁が報じられる中のことで、感動のイベントが終わったと同時に、選挙目当ての印象操作を開始する反日メディアの存在は、日本の国力を劣化させるだけだ。
「菅総理、長崎式典に1分遅刻」「バッハ会長ポロシャツ姿で銀座散策に人だかり」「ネット騒然 バッハ会長選手は観光禁止なのに銀座散歩」「閉会式で選手次々退場 懲りない橋本会長 日本人であることが恥ずかしい」「日本のバドミントンはあぐらをかいていた」
こうした表現で2020の後味を悪くするのは、いずれも五輪中止を唱え、日頃から政権批判に明け暮れるメディアである。「五輪が終わって残ったのはガラクタだけ」といったサンモニコメンテーターもいた。寂しい思考だ。
17日間、そうした反日喧騒から若干解き放たれていたが、いよいよ解散総選挙ともなると、またそぞろ世間の騒々しさが政治に向けられることになるのだろう。
その前にまだまだ世界の祭典は続く。パラリンピックも同様に注目したいと思うが、まさかパラリンピックに開催反対などの批判的な目が向けられることはないと思うがさて。