前々号№3044の内容に、表現の言い回しに配慮不足の部分があり、子どもさんを現在指導されている方の心情を害したことがわかりました。メールでいただいたその方のご指摘はその通りだと思います。表現の誤りとは次の部分かと思います。ご指摘はお一人ですが、同じように感じられた方が他にいらっしゃる可能性をふまえて返信ではなく再度ブログで私信を述べることにしました。
「正智深谷高教諭 部員に体罰・・・女子バレーボール部員が至近距離からボール投げつけられた。出ていけ!とか何やってんだ!などの言葉を浴びせられた。さて、どうだろう。これが体罰と認定されて減給3ヵ月の処分になったという。小生の想い出の中には、これと同じことはいくらでもある。我が子のスポーツ少年団でもこれ以上の罵声を浴びている現場にいくらでも出くわした。今でもこれは変わりないと思うがどうなのだろうか?」
この内容だと確かに、「罵声を浴びせているのは今でも変わりない」という意味合いに感じられます。いただいたメールは、私の認識不足を指摘し、体罰やパワハラと目される指導は撲滅するという強い思いを伝える内容でした。もちろん、それに異論はないし、素晴らしい指導者精神だと思います。
しかしながら、私が主張したかったのは、何やってんだ!という言葉がパワハラにあたるのかという疑問と、それで給料を減額されたのでは、校長の過度な罰則適用という逆パワハラという感じがしないでもない。そして、この言葉をパワハラ体罰として指摘する記事自体もパワハラではないかと感じたからです。事実は、もっと深い事情があるのかもしれませんが、記事そのものはあまりにも過度過敏な感じで、これで減給された上に記事にされたら指導者もたまらないなあという同情に近い思いがしたのです。ペンの暴力という名言がありますが、メディアは文字や言葉で特定対象者を持ち上げるのも批判にさらすのもペン一つです。そんな最近のマスコミの風潮には違和感を感じています。
私は、自分で言うのもなんですが子どもの躾には厳しい姿勢で臨みました。クラス担任や部活指導者にも、筋の通らない言動に対しては遠慮なく対応してくださいとお願いしたものです。ですから、何やってんだ!とか、グランド何周!とかの言動が指導上で発せられても問題はないという感性であり、その程度のことは今でもあるのではないかとの推測で文章を構成したつもりでした。信念をもってチームと選手双方のために行う熱血指導には私は異論を持ちません。しかし、先に罵声という言葉を使ったまま次につなげてしまったのでご指摘いただくのは当然だろうと反省している状況です。罵声はいけません。
チームスポーツと言うものは、チームワークを原点に個々のプレー能力が生かされ、それがつながってチーム力がアップするものと確信しています。そのわかりやすい指導例として、50年前の大松監督や現代の井村監督の例を出しましたが、結果を残した功績者にはその強圧的指導が問われない一面があるのは事実です。最近の、アメラグ、レスリング、ボクシングといった世界で起こった事件は、指導者の人間不足が原因で、人の道を外した指導者として糾弾されて当然の出来事でした。私は指導という意味合いに「愛のムチ」というものは存在するし、認めてもいるのですが、それがどういうものかは現代社会においては定義付けが難しいとも感じています。あえて言うなら、納得するまで自分で考えさせるために問い、そしてやらせることの繰り返しではないかとも思うのですが、考え方や価値観は様々ですし、とくにパワハラは<ナイーブな対象だと思います。
全米オープンの栄冠を得た大坂なおみ選手のコーチであるサーシャ・バイン氏が彼女に寄り添うコーチぶりが話題になりました。彼の指導は、君の力はこんなものじゃないと、選手に自らの能力を信じさせ、自分自身も選手の力を信じているという感覚を選手に与える指導法。座って大坂選手よりも目線を低くするのも需要なポイントでしょうね。もっとも、あの極限の精神状態にあって技術を教えても意味はないし、問うことと信じることの大切さを世界に知らしめたと感じました。結局は、根性や火事場のクソ力を発揮するような言葉を投げかけているのでしょう。
ともかく、我が文章で心情を害された方にはお詫びをし、今後の文章表現を構成する上での糧にしたいと思います。