都知事選挙が小池百合子さんの圧勝で終わった。多くの人にとって興味が異なる埼玉県富士見市の市長選挙も同日選挙の投開票で、保守系星野光弘さんの圧勝という結果となった。
この二つの選挙は、当然のことながら別の形での特徴的なことがあり、また近年の選挙事情の移ろいを改めて実感させる共通項も感じられた選挙であった。
都知事選における増田氏、鳥越氏の敗因は大方が評論もしくは分析している。私が感じる大きな点は、小池さんを応援したら一族郎党除名といった通達に関することである。都連自民のドンの意向は、小池さんが喧嘩を売ったことへの報復的内容であったことから、自民支持者の心を悪い方向へ揺さぶった。政治の世界のことゆえ仕方がないとか、何でもありなんだろうといった通常前向きな理解者も「それはひどい!」といった党議恫喝に聞こえたのではないだろうか。
ここでつまずいただけでなく、石原慎太郎爺の余計な中傷があり、その言葉が発せられた瞬間、増田さんは笑っていたというので俄然雲行きが怪しくなって行った。増田氏にしてみれば、かつがれて落されたような感覚に近いと思う。私も指摘したこととして東京一極集中回避論との整合性を欠くというのも確かな痛手となったはずである。
鳥越氏については人柄すべてに尽きる。反権力オンリーの主張を前面に押し立てた見識も疑うし、週刊誌報道への無責任対応がキャスターとしての過去の言動と矛盾するなどご都合主義な面も垣間見え、いわゆる人柄資質で都知事にしたくないというのが一般論として増幅していった。あんな人だったんだという声が日増しに増えたいったのではないかと推測できる。
増田、鳥越両氏ともに、他者責任と自己責任の違いはあれど、女性の反発は少なくなかったと思う。
3週間前の参議院選挙の際、民進党で当選した蓮舫、小川両氏の獲得数が約163万票、共産山添氏が約66万票、社民生活系が三宅、増山両氏で約35万票であった。それに前回の知事選で共産候補が得た票が90万票だったことを合わせて考えると、あくまでも単純分析だが共産社民の票約100万票が鳥越氏に入り、それを下地にして、残り30万票強を民進系や無党派からと考えたならば、いかに民進党支持者が鳥越氏に賛同しなかったかということになる。
投票日前日の岡田代表の代表選辞退の談話も間の悪さとしてはこれ以上のものはなかった。
さて、小池新知事の処分を自民党本部は考えているというが、それはするべきではない! いったい、何を考えているのか情けなくなる。選挙の結果で290万人の了解を得た小池さんを党紀によって処分するなど、少なくとも290万人、いやそれ以上に多くの国民を敵に回すようなものだ。
私も、自民党県議団の一員としての任期中、党紀委員を仰せつかっていたが、その4年間で3人の除名決定が行われた。除名自体がそうそうあるものではなく珍しいと聞いていたので、気持が晴れたことはなかった。
その時折の都合で、除名だ、処分だ、入党だなどと、やはり最大政治政党の驕りが見えすぎている状況は怒りに近い憂いを持つ。今回、小池さん処分を実行したあかつきには、小池さんとの軋轢は生じるだろうし、自民党離れが加速するやもしれぬ。そんな醜態をさらすことなけれ! ほころびが広がるだけだ・・・と感じる。国と東京の共同作業であるオリンピックも控えているというのに。
富士見市の市長選挙、前号でも書いた通りです。まずは星野氏の当選にあたり、読者の皆様に御礼を申し上げます。
まだ61歳という年齢にもかかわらず、2期で清く引退(上田知事とは大違いです)を表明した前市長を引き継ぐ形で立候補した星野氏は驚異的なトリプルスコアで新市長の座を獲得しました。県議の任期を3年残してのチャレンジはまさに故郷を思うが故のことであり、かならずや県西部の発展のために行政単独の枠を越えて広域的発展のために尽力することと確信をし、またエールを送りたいと思います。
都知事選と富士見市長選の共通項とは・・・?
それは風や地域特性にもよるでしょうが、自民党という看板は絶対的なものではなくなりつつあることをはっきり感じたことです。
私は自民党員ですし、数の論理をベースにした議会制政党政治にあって国政を任せられる第一党は自民党しか考えられませんが、地方にあっては、有権者の投票心理をくすぐるものは、かならずしも政党感覚ではないということです。党議拘束や党利党略、驕りから生まれる恫喝、怒声といった独裁志向は厳に慎むべきです。
国民、とくに増える一方の無党派有権者はスキャンダル嫌いで、見えても見えなくても人柄優先の選択肢に変わりつつあると感じます。
よって日ごろの議員活動にあっては、モラルを守り、マネーに注意し、ムーブせず、ムードに流されずの4Mで、しっかり腰をすえた活動に努力してほしいと思います。政治の世界は一筋縄ではいかないことは重々理解していますし、悪がはびこる面もあるでしょうが、結局、最終的には人柄が勝つと確信しています。これは、晩節を汚すことなく賞賛と感謝に迎えられるという意味での勝つと申し上げているつもりです。
生意気なことを申し上げました。