インフルエンザが猛威をふるっている。聞けば県庁内でもそのレベルは相当なもののようだが、地元の小学校の学級閉鎖があって久しいことから、期間的にもかなり長期にわたっていることがわかる。
テレビでは、3月に入ると花粉症やPM2.5が蔓延してくるので、症状が似ていることもあって個人判断は危険だとしていた。我が家は、今のところ花粉症に侵されていない家系だが、インフルエンザの辛さはすでに経験済み。最近、鼻の大切さをあちこちから聞かされるので、しっかり予防に取り組みたいと考えている。
さて、№2712で川崎老健施設の入居者投げ落とし事件について書いた際、後述すると明記して締めた。それは、容疑者が聴取の際に「手のかかる人だった」と漏らしたことに感じるところがあったからだ。
今、まもなく90になる義理の父が数年前から施設に入っている。歯に衣を着せぬ性分は歳をとっても一向に変わらない。真っ直ぐで真面目な人柄だが、世の不正や身近で起こる不条理を自らの価値観、評価基準に照らして忠実に言葉を発する性格である。
予科練経験も多分に影響しているのかもしれないが、頑固、武骨その他古いイメージをそのまま変えることが出来ずに今を生きている感じだ。
「何もなかったでしょうか? 口うるさいので迷惑をかけているんじゃないかと」と介護の皆さんへのねぎらいとお礼の言葉が、時折の訪問時の常套句になっている。いつものこととして、相手の言葉と表情で暗黙の共通理解がそこに生じる。
私や家内にはそうでもなくなったが、上から目線で威張る言い回しなので、おそらく我慢も最高潮に達する場面があるだろうにと思うのだが、有難いことに、おおむね中年以上の域にある介護の皆さんは人扱いに慣れているようで助かる。
私も、母にボケが出始めたころ、怒るとか叱る対応は禁じ手だとわかっていながら、つい場面場面で出てしまうことが少なくなかった。申し訳ないことをしたという思いに今でも駆られるが、それほどボケや認知症は身内ですら我慢の限界を超えかねない対応の難しさがあるということではないだろうか。老老介護の悲惨な結末は後を絶たない。
であれば、人生経験の少ない若い介護者では簡単に「切れる」場面があっても不思議ではない。高齢者の身勝手、我が儘に抑制力が働かないのであれば、この介護者の資質が高齢者福祉の最大の問題になってしまうことになりはしないか。
だからと言って、川崎事件の容疑者を擁護するつもりは毛頭無いのだが、介護者を採用する基準は、この点をより高い基準にしないと今後も同様の事件は起こることは否定できない。ましてや、若者の正規雇用が厳しい時代にあって、身の置き所としてこの職を選択するというレベルでは、そのギャップは計り知れないものがある。
川崎事件の容疑者も23歳で、経済的にも苦難な状況であったと伝えられている。こうした施設では、入居者や同僚の財布に目をつけることも実態として少なくないのではないだろうか。
高齢化時代にあって、高齢者福祉への予算が多く計上される傾向にあるが、実は、もっと若者世代に向けた活性化施策を盛り込んで、若者活力を国も高齢者も享受出来る社会づくりが必要なのだ。
市議時代、「20年、30年先なんて我々には関係ない。政治家には、今の我々の生活を向上させてほしい」と月に数回もゴルフに出かけるような方にハッパをかけられることがよくあった。これは希望でも要望でもない。欲望だ。
しっかり働き、しっかり蓄え、生活に困らない年金を受給している高齢者たちにも、前述の社会の因果関係とシステムをしっかり理解してもらえるようにしなければいけない。次世代や次々世代の活力があってこその老後の生活だと。
世にはびこるモンスター群像がいくつかあるが、最近、リタイアモンスターと称する人たちが生まれいでてるらしい。身近な地域の世直しに立ち上がる「三匹のおっさん」は、あくまでもドラマの世界だが、このモンスターは地域社会で嫌悪感を持たれるおっさんたちのことを言うらしい。
よくある会話に「口うるさくて煙たがられる年寄りより、親しまれ、愛される年寄りのほうがいいよね」というのがある。「まだ、そんなこと考えるの早いさ」と思いつつ、「そうかもしれないなあ」と近未来の自分の姿を鏡に写し出そうとする自分がいる。
高齢者が幸せな老後を暮せるために、若い人たちが安定的に社会活動に寄与できるような国造りが、世界一の高齢国家である日本に必要ではないか。
そして、そのためにも教育というものが国造りの長期展望として、最も大切な行政課題だと私は提唱してきている。
それと同時に、老健施設の適切な運営管理にも、短期、中期、長期と区分した深い考察が必要であると思う。