№2658で、実物を添付資料で紹介までしたある代表区長の選挙活動は、ブレーキがかかるどころか更に拍車がかかっているらしい。
実際、区長に限らず、およそ公務員と称される人々が、そうした活動をしているという話は少なくないが、静かに、おとなしく、わからないようにやる分には・・・わからないのだからどうしようもない。
その場合、政治的信念の度合いや、人物感を優先して応援することにしたと言うならまだいいが、候補者本人の資質と関係のないところで、盲目的な状態になる応援の姿は関心できない。
現職候補者のミニ集会の案内チラシに、差出人として堂々と印刷されているというのは、いかにも行き過ぎた準公務員行動に当たるはずであり、公選法に理解が及ばないのか、わかっていて図々しいのかのどちらかということである。
ところが、更なるエスカレート行動は、あろうことか候補者カラーであるジャンパーを着用した人たち(つまり複数で)が候補者を連れて戸別訪問しているという。そして、その中の一人が上記の代表区長その人だというのだから、もはや確信犯的公選法違反行為ということになる。いやはや恐れ入る。
この場合、候補者が現職であると、市税で報酬を受けている人に対する強要という理解も可能なところとなり、区長のみならず候補者にも問題は生じることになる。「市長に頼まれたから連れて歩いた」という立派な違反行為になる。これは現職と新人が異なる点である。
上記情報は、訪問を受けた人からの通報だから間違いないものと思う。私宛に連絡を入れるというのは、「このままほっといて、やり得を許しておいていいのか!なんとかしないと」という思いからのようだ。
私が、街の政治家に名乗りをあげてから、小さな街の選挙の実態というものを、いやというほど思い知らされた。いやというほど耳にした。
「あのうちの奥さんは○○の身内だからな」
「あそこは子供が就職で世話になっているから」
「仕事で付き合いがあるから」など、まるで投票するのが当たり前くらいの「しがらみ感覚」が優先されるている。挙句に、移り住んだ者に街のことがわかるわけがない!という。何年経ってもよそ者はよそ者だと、よそ者の先輩がさとしてくれる。新しい血は必要ないという哀しい話らしい。
親戚感覚や同級同窓感覚が選挙に生きる内向き思考は、しがらみ感覚の双璧だろうと思う。この感覚を捨て去ることが不可能なことだとは理解している。
私の選挙の時では、いろいろな有権者との会話の中で、「うちの子供は、あの親の教え子なんだよ。そんなわけで悪いけど・・・」という場に何度も直面した。候補者に基準が向いてない典型ではないだろうか。現職だった私には、まったく批評の目さえ皆無なのだから、どうすることもできない。
こうした傾向には、都会型と地方型との違いが如実にあるし、地方型にも各地それぞれに独特なものがあると思われる。
こんなことで、街が良くなり、発展するはずがない!
私自身は、投票は必ず行い、その投票指針は政党8割、政策2割というのが権利取得後45年間の基本的考え方であった。政策はマニフェストという横文字になってから、その信頼性を大きく失った。嘘や無理なことが平気で示されるから2割の位置づけでいいというのが私の考え。これは今のところ死ぬまで変わることはないだろう。
子どもたちにも投票のススメは説いてきた。考え方のアドバイスはすれど、よほどのことがない限り投票対象を指示したことはない。かなり昔の話だが、家内でも迷いが生じた時は私に聞いて来ることがあった。
18歳選挙権・・・文科省では指導書原案が出来たと聴く。国内でも過激ぶりはトップクラスの埼玉県弁護士会が出張指導に出向くという?な話もある。
世界の中で20歳で仕切っているのは日本くらいだという話もある。
だから世界に合わせるというのは、こうした場合意味があるのだろうかと思えてならない。それぞれ、国家には伝統的に築いてきた風土というものが、ありとあらゆる事象にある。単なるパーセンテージ重視の横並び思考を優先させることが、日本の未来に良いのか悪いのか大いに疑問のあるところだ。
だいぶ話がそれたようだ。
今一度言うが、しがらみだらけの選挙のあり方は、けっして街のためにならない!
そして、選挙コンプライアンスが著しく欠如している実態には、市民が問題提起を声高にするべきである。冒頭の違反区長は若い人にどういった教育ができるのだろうか。こう考えると街の今後が悩ましくなるばかりだ。