台風19号がやってくる。時速15キロ程度のじっくり滞在型の超大規模な台風だそうだ。備えあれば・・・の実践の違いが出るところかもしれない。
11日土曜日の新聞各紙は、埼玉欄のトップ記事に県議選の新選挙区割りを扱っていた。埼玉新聞ではもちろん一面トップ見出し。
各会派それぞれの考え方はあるが、議員激減を訴えるものあり、逆に増やすべきとの声あり、その思惑は様々だが、結局は今の党勢、会派事情に照らし合わせて、それぞれの主張をしているのが実態だ。
議員数を減らすべきと主張する会派は、それが民意であると有権者に同調を求める論理展開に持ち込みたい。その真の狙いは、最大会派の議員減数にある。こうした議会における会派別論理はどの党がどの位置づけにあっても、与野党の図式に則って同じパターンで繰り広げられると言っても間違いない。
つまり、野党に下野すれば最大会派の人員減を狙った選挙区割りをと考えるのは当然と言えば当然であり、野党の中でも最大野党の思考と、一人、二人の極小野党の主張は、おのずから異なるものだと言える。
少数会派は常に綺麗事、理想論を主張するし、出来るし、それが議会の与野党論戦の在り方とも言えるのだ。これは民主主義の最大かつ唯一のルールともいえる多数決と無関係ではない。いや、むしろそれを土台にして成り立っているのが議会の本質であり、有り様なのだ。
だからこそ、与党にある政党や会派が受益者負担を伴う施策に、有権者の反対を受けながら議会提案することになるし、それが出来ずに政治を司どっていたら、その国はいずれ疲弊していくだろう。
議員削減が、あたかも議会改革の本線だと主張するのは有権者意識に過剰迎合し、次期選挙戦を有利に進めようとするパフォーマンスとして十分あり得るし、実際その傾向にある。政治とはそういう流れに自然と導くものなのだろう。そのあたりが、政治の政治らしい姿だと、なってみてわかった。
ともあれ、政治をしっかり見つめている有権者には、減らすことが目的ではないし、それを求めているわけでもない、と言われる方がけっして少なくない。改革とはもっと別の次元にあるのではないかという人たちだ。
ただ、兵庫の野々村元県議のような存在を目の当たりにしたりすると、それが県議すべてのイメージであるかのごとく印象づけられる、いわゆるハロー効果に類似した傾向がもたらされてしまう。そうした見方は、やむを得ないとは思うが、本当に、こういった人に政治を担てもらいたいと感じる人は、たとえば埼玉県議会にも数多くいる。
なにかというと、政治を悪の権化のように言い、議員を減らせ、報酬を減らせという声がある。中には、政治が地域社会に関わることを毛嫌いする人もいるが、はたしてそれでいいのだろうか。政治家の一言が、社会や地域に新しい動きを生むというのはけっして悪いことだと思わないが、案外と受け入れられないのも事実ではないだろうか。
マスコミにも議会軽視の傾向があるが、それは政治を正面から見つめず、裏側から覗き見るかのごときだと思う。スキャンダルニュースが販売部数を伸ばす最大の要因に、いつからかなってしまった。本当に政治の質が落ちていいのだろうかと感じる。