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No.2526 思春期の家庭崩壊が原因?

2014.08.04

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 佐世保市の女子高生殺人事件に関して、言いようのない震えをともなう複雑さを感じている。
 国政も台風も水難事故も印象が薄くなるほどショッキングな事件であり、思考がなかなか追いつかない事件である。いろいろな意見、考え方があるとは思うが、時の経過とともに見えてくる単なる猟奇的事件とは言えない状況から、私は幼児教育の大切さを感じている。


 幼少時に見せる興味、好奇心の対象がどういったものかは、その後の少年少女期に大きな影響をもたらすことは間違いない。それに親が気づくか気づかないか、また気づいた場合にどう対処するかは大きなポイントであると私は思う。もしも、担任教師なり学校側が何らかの異質を感じ、立場上の早期対応として親に報告した場合、おそらく親は学校に噛みつくか、子どもをガミガミ叱る両極のパターンが多いのではないだろうか。実態を冷静に視図り、異質の好奇心から子どもを切り離す処置対応が出来る親は優秀なんだろうと思う。それが出来なかったならば、もはやその異質性は増幅する一途かもしれない。しかし、それすら一過性のものかもしれないし、絶対的な確証はない。ことさらに幼少期の子育ては難しく、ゆえに親はもちろん周囲の気配り、目配り、心配りが大切だということは言える。

 少し話はそれるが、実は、私はサッカーチームに入っていた子どもが、ツートップのポジションでの試合中、自チームでボールを支配し、パスを回している状況下で、「○○にパスするな!」と発した言葉ひとつでチームをやめさせた。小学校3年生のことだったか。家内からはかなり抵抗にあったし、他の子どものお母さんたちからも厳しすぎるとの声をいただき、子どもには可哀そうな思いもしていたが、出した結論を引っ込めることはしなかった。
 チームスポーツに参加させ、チームワークとは?という自然教育を期待していたが、その思いとは実態が離れていたと感じたからだ。めったに見ない試合を観戦に行ってのことだった。少し・・いやもう少し反省している。
 そして、それからしばらくして子どもは野球チームでお世話になることとなった。
 この我が家の四半世紀以上前の出来事は、興味や好奇心という観点とは異なる協調性という一面が私の逆鱗にふれたということであって、比較論においてはさほど深刻ではない。今、ありがたいほどに親孝行を思考する人の親に成長してくれた。手前話ですみません!

 子どもは子どもらしく育てばいいと思うのは簡単なことだが、実は子どもは大人の予測想像のはるかに上を行く異なもの、奇なものに感心を持つ場合がある。それにどう対処するかは、ほぼ親だけにしかできないと言っていいだろう。
 ところが、その親が躾に関わる子育てを誤ると、考え方が特殊な持ち主を形成してしまう可能性があることを示したのが今回の事件ではないだろうか。
 思春期に起こった家庭崩壊が動機の原点であるかのような報道も見られたが、やはりこの事件は奥が深く、その複雑性の解明は容易ではない。

 「人を殺してみたい」と発言していたことから、精神的な異常を唱えるむきもあるが、それでは今後こうした事件が起こるたびに、被害者家族が報われない可能性を示唆する。はたして「人を殺してみたい」と考えることが精神異常と言い切れるかどうか・・・。
 「命の教育」の必要性は間違いないが、それは、その内容に入り込んでのあり方を検討画策することが大切なはずだ。当たり前のことを教えることほど難しいものはない代表的なものが「命の教育」ではないかと思うが、いかがなものだろうか。