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No.2891 狭山虐待死事件

2017.06.16

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 虐待が後を絶たない。とくに全国的に埼玉県での発生が多いように思えるのはなぜなのか。私が現職時代、虐待防止議連の新設を訴えたが一期生の出過ぎた行為ということだったのか、40代の先輩議員に時期尚早と断られた。
 昨年、その条例作成検討プロジェクトが立ち上がって、この6月定例議会で上程される可能性もあるように聞く。良いことだ。ただ、貧困ビジネス防止条例でもそうだったが、その後それらを防ぐ道筋に役立っているかというと、残念ながら条例は必ずしも犯罪を防ぐ壁にはなりきらないようである。と言うのは、条例は法律の手前の段階で罰則規定を設けることに対して高いハードルがある。少なくとも法律以上の規定を設けることは出来ない。
 児童虐待はとくに実際の家族単位の中で発生するものであるから、誰が犯罪と認識して児相や警察に通報するかがカギなのだが、それが難しいというのが実態である。昨日、実の母親に対する実子虐待に対する判決が言い渡された。
注目は二つあった。一つは先に判決が決定した内縁の夫に対するものとの比較であり、もう一つは裁判員裁判による判決ということであった。

 結果は、求刑どおり懲役13年の判決となったが、懲役12年が言い渡された内縁の夫より重い刑となった。ろくな食事も与えない、暴力を振るう、細った身体に冷水をかけるなど我が子によくもそんな仕打ちが出来るものだ!と普通の感覚で思うことが、見えない社会の暗部でまかり通っている現実に深いため息とともに重い何かがのしかかる。弁護士の言葉が虚しく響く。 
 虐待は貧困が問題だとか、はては政治の責任だなどと軽々しく吠えるヤカラがいるが、人の心の奥底に秘めるハイド性は原因と責任を分析するまでもない。戒めることが出来てもそれはあくまでも犠牲者が出てからのこととなるのは必然的な流れである。自分流に言えば、陰湿・隠蔽的事件の代表とも思われる虐待事件は今様の自分ファーストの社会が優先することと無関係ではない。 若い親にあっては自ら閉鎖的にならない努力をしなければ子どもに良い影響を与えない。小さな地域コミュニティーでは若いお母さんが閉鎖性の強い地元社会になかなか溶け込めないという実態もあるのかもしれない。社会は常に成長を追い求めるが、それにモチベーションをともなってついて行こうとする若者は素晴らしいが、自らを高めることが出来なくなった時、心が折れてしまったかのようにフラストレーションとなって他にぶつけるようになることが恐ろしいのだ。
 狭山虐待死事件の母親は暮らしのみならず本能であるべき子育てへのモチベーションすら失ってしまったのだろうか。
 高齢者の世界でももっともっとボランティアの範疇に損得抜きで入り込んで人との触れ合いを多く持つことは有意義なことだと思うし、多くの人とにこやかに接することが出来るかどうかは人生の晩年を左右するはずだと思うのだが・・・。

 さて、もうひとつの注目点である裁判員裁判。今回の裁判員の判決後のコメントにはより厳しい内容を求める声もあったが、だいたい裁判員は犯罪に対する処罰意識が強い傾向にあるようだ。判決後に裁判員裁判がコメントを発することはあまりないし、そもそも守秘義務的な一面もあるのだが、とくに注目度の高い公判だったせいかマスコミも裁判員の感性を確認したかったように感じる。実は私も一昨年の夏に裁判員裁判の補充裁判員に選ばれたことがある。補充裁判員とは公判での発言資格はないが求刑を決める協議の場では発言が出来る。たまたま同時に選ばれた裁判員の年齢や性格から発言量に違いが出るのはやむを得ず、私はけっこう発言したと記憶している。ただ、発言の量にかかわりなく、事件経過を把握し、公判で被告と対面するにあたって裁判員の目がほぼ一様に厳しい方向に流れていくように思えた。写真は参加証のピンバッジである。
ファイル 797-1.jpg 私的には、日本の刑法犯に対する量刑は軽すぎるという思いがあるので違和感はなかったが、本来は更生への道を探ることも裁判員制度の目的とするならば、まだまだ考慮すべき点があるように思う。裁判長と二人の裁判官がその辺を優しく説明してくれたのが、今でも心に残る。
 藤本彩香被告、24歳。37歳で刑期を終えて社会復帰した時、どんな人間に変わっているだろうか。13年の刑期をどう過ごすか次第だが、羽月ちゃんへの懺悔の精神はひと時たりとも忘れることがあってはならない。こんなに可愛らしい素敵な名前をつけてあげたのに・・・。