古館伊知郎氏がテレ朝「報道ステーション」のMCを3月いっぱいで降板した。その最後に、彼はこう語った。「人間は少なからず偏っている。情熱を持って番組を作れば多少は番組が偏ることはあるんです」と。
この言葉に対する視聴者やメディアの反応は、大方厳しいものがあるようだ。
確かに、放送法違反もやむを得ずのようにも聞こえる、人格評価を自ら低下させる発言は、政治思想に関わる方向性が対象になっているのだから、こうした考え方で12年間メインキャスター張ってきたのかと思うと残念でならない。
実は辞めたくないのに辞めなければならなくなったことへの最後の「開き直り」か「言い訳」か、品が無い表現で申し訳ないが「イタチの最後っ屁」のように思えてならない。こんな言葉を残して去ることに何の意味があるというのだろうか。
メインキャスターはゲストの語りを引き出すことが仕事であり、引き出しの上手下手が番組の骨格になるはずである。とくに政治を話題にした時は、賛否両論のゲストを迎え、議論も含めた主張を述べるのが本筋だが、この番組はもともとゲストの選抜自体が偏っているのだから推して知るべし。
情熱を持って番組を作ると言うが、MC自らが主義主張を表現したいという意味での情熱であれば、それはもう政治的ワンマンショーに変貌するし、ゲストコメントを引き出すにも誘導的になるのは目に見えている。有名税のプライドに溺れすぎた思考が垣間見える。
古館氏と同タイプのキャスターたちは、年金問題で自民党が国民の怒りをかった時から、あけすけに自民党批判を展開しはじめ、政権交代の火付け役となっていった。大マスコミが煽る悪役自民党のブーム・風作りシナリオの花形コメンテーターとなって、政権交代を実現したのだ。
しかし、自分たちが前面に立って実現した民主党政権のていたらくも、自分たちの軽挙妄動を責めたり、反省したりすることは意地でもできない。むしろ政権交代誘導の批判を逃れるためには自民批判を継続し、その先鋒を努め続けなければならなかった。天下の大朝日が実はこのスタイルだ。従軍慰安婦報道の誤ちは長々と認めても、読者への謝罪はなかった。
そうして原発、沖縄基地、憲法、特定秘密保護法、そして平和安全法制・・・すべてが政権批判の対象になっていった。どういうわけか第一次の時の教育基本法の65年ぶりの改正の際は、それほどでもなかったと記憶しているが果たして実際はどうだったか最早定かではない。
その後も、嫌自民マスコミによって国のためになるとは思えない言葉狩りが続き、それを題材に野党が大切な国会審議時間を費やしている。ところが、自分たちの言論の自由を殊更に叫ぶ姿は異様に感じられたものだ。
最後の最後でガキのようなツッパリ発言を残していった人物が、政治的誘引の意思を持って構成に口を出していた番組。それが報道ステーションだったということか。この有名税を駆使した偏向キャスターによって、どれだけの国民が歪んだ影響を受けたことだろう。