上尾と朝霞の市議選が4日にあった。両市ともに約4%程度前回より投票率がダウンした過去最低のようだ。我が幸手市でもそうだったが、象徴的なのはどの選挙も、どこの選挙もこの1年最低投票率を記録したことだ。埼玉知事選にいたっては4人に一人弱しか投票しない全国最低の数値だった。大阪だけは別格で大阪都構想がかなりの要因になっていると考えられる。
思えば、平成の大合併では全国どの地でも住民の関心は高かった。合併の相手、合併後の名前などへの興味は、今の選挙戦で目の前にぶら下げるバラマキ公約とは似て非なる次元で、投票率をアップさせる効果があった。合併と選挙の投票は意味が異なるとは思うが、残念ながら、おそらく今後の選挙戦での投票率低下に歯止めをかけることは難しいと思う。
議会、議員が国民から信頼を失っていることが投票に行かない傾向の最大の要因だと言う人が多いが、投票したい候補者がいないとか見分けにくいというのも原因だろう。しかし、しっかりと良識の活動をしている議員も少なくない(と私は回りの日常から理解している)のだが、たしかにわかりにくいとは思う。
くどいようだが、政治の低下傾向は、政治、政治家の体たらくさによって選挙に行かない有権者が増えているからなのか、政治に夢が持てず、政治を志す人材が生まれにくい社会背景が問題なのか・・・どちらも正解だと言う人もいるかもしれないが、何か事があると、有権者の立場からは政治貧困、質の低下が原因だという。その論理に若干疑問がないではない。
少し角度を変えてみて、公約そのものが昔は日本列島改造論を代表に、高度成長をバックにした公共事業を全面に出せる時代があった。まさに躍進日本の最盛期であった。今は、財源論を脇において生活支援を訴えるバラマキマニフェストが選挙での優位性を持つ。そこには、いわゆるエセ・マニフェストに翻弄される有権者の姿が見える。このままいくと、少し極端かもしれないが、生活保護の額を増額しますとか、保護申請を簡略化しますとかいう公約さえ生まれかねない勢いではないか。
国も地方も財政窮状という現実からは、財源もないのに美味しいニンジンをぶら下げる集票選挙戦術に乗ってはならないのだが・・・現実はそうではない。
そもそも、ハコモノで国の借金が増えた責任がすべて政治だとする風潮は、よく考えてみると、全国各地がそうした方向性を求め、要望かつ支援をした有権者の姿があったことも原因のひとつだと思う。そうした意味では政治家も支援者兼有権者に迎合せざるを得ないとはいえ、どこか早い時点で相互に自制するべきだった。
今また話題になっている政治資金集めや、選挙戦の在り方で、結局は国民の信頼を無くし、政治不信を招いている政治家はどうしたものだろうか。政治家は少々ワルのほうが大物政治家らしいといった論理が横行するが、低迷経済下においては危険すぎる思考だと思う。それは高度成長時代には通用した論理かもしれないが、それでも正しい論理だとは私には思えない。
そして、多くの有権者が捨てている投票という権利。このブログを読んでいただいている人には、そうした捨権者はいないと確信している。