安倍総理による戦後70年談話は、戦争が生んだ悲惨な実態に真摯に想いを馳せ、今後の日本の歩む未来について、見事なまでに世界に貢献する国家の姿を示したという点において素晴らしいものであった。4月28日の米議会での演説と合わせ、安倍晋三という政治家が、世界に誇れる政治家であることを確信できた。
なにより、静かな面持ちで原稿に頼る姿勢少なく、長めではあったものの、説得力のある談話を発する総理の姿に清々しさを感じた。
コメンテーターの木村太郎氏をはじめ、あえて談話を出すことがあるのだろうか?という談話そのものの必要性に疑問を呈する声も少なくない。私もどちらかというと、その声に同調する一員である。
その夜、たまたま安倍批判チャンネルを観ていたら、招いたゲストが「河野さんや村山さんの時に、あまり関心をもっていなかったが、今回は世論もかなり話題に取り上げているようです。私も過去の談話がどういったものか真剣に考えたことはありませんでした」といったコメントを出す始末。過去の談話に対してこの程度なんです。私たち国民の関心度が低い状況で、贖罪の談話を繰り返し発表した事実があったということです。
戦後談話は詫びることが目的であるがごとくに、キーワードをあらかじめ要求するマスコミや野党の主張には、やはり自虐的な思想を感じ得ないし、未来永劫10年きざみでお詫び談話を発する責任があるはずもない。
毎年、戦争を回顧するイベントが各地で開催され、メディアでも特集番組が引きを切らない。単に戦争の実態を伝えるという意味であるならば、それは意義深く、尊いものなのだが、常に日本が侵略戦争を強いたという自虐的な意味合いをクローズアップする目的があるとすれば、それは日本の未来のためにどれほどの意味があるのだろうかと思えてならない。
靖国神社の参拝でも言えることだが、純粋に我が国のために戦い、命をおとした英霊に感謝と安らぎをの想いで手を合わせることでいいのではないか。戦争が好きな人などいないし、戦争をしようと思っている人などいないという性善説を持てない人こそ、より好戦的な人なのではないか。それは、ある種の人たちに伝統的に血の粛清といった形で示されるのと同じように思えてならない。主義主張を貫くためには、本質的に人の命をなんとも思わない思想は世界平和の敵でしかない。
今回の安倍談話は、日本の未来への方向性を示し、世界平和に貢献する姿を訴えた点において、批判自体を短時間で収めてしまうほど国民に合意と納得を浸透させてくれた。世界でもそうした評価が多かったようだ。その点では、70年談話を出す意義は、今回に限ってあったと考えているし、ひょっとすると、総理は今回で談話を打ち切りたい、いつまでもお詫びの表明を続けることはないという想いで、あえて今回の談話に踏み切ったのかもしれない。
お詫びのキーワードについて連日のように報道していた朝日をはじめとする反自民新聞各紙も、声を潜めたしまった感がある。朝日などは、あろうことか談話は出さないほうがよかったなどと書いてもいる。国民が認め、5%も支持率が上昇したことなどから、攻める手だてを逸したということかもしれないが、誉めることもできずで迷走しているように感じられてならない。挙げたこぶしを戻すにも戻せない姿は滑稽でもある。
特に、20~30代の若者に、談話支持者が多かったという事実は、頼もしい限りではないか。自国を悪い国だと思い続けることになんの意味があるというのか。反省も賠償もするべきことはしっかりした。それを安倍総理は今回の談話で訴えたかったはずである。
もとより、知識・技術優先国、武器先進国、企図力優先国が、古くから新たな経済効果を求めて未開地への植民地化侵略を続けた歴史的経緯が、最後の最後に大東亜戦争のきっかけになった。ソ連の不可侵条約破りで多くの虐待を受けた日本人がシベリア、樺太にいた。通州事件など中国各地でも虐殺された多くの日本人がいた。そして、沖縄、広島、長崎は言うに及ばず本土大空襲で命を落とした日本人も。
当時の陸軍の交戦決定は歴史の流れの中でやむを得なかった部分もわからないではないが、戦争終結を闇雲に伸ばした無駄な心意気・・いや暴走ぶりには、同じ国民として、どうして素直にもっと早く降伏宣言できなかったのだろうかと、悔やまれてならない。少なくとも、終戦5ヶ月前の東京大空襲の前に降伏していたら・・・
しかし、この戦争の結果、核の使用は最初で最後の歯止めとなり、独立自尊を果たした国家が多く生まれ、先進国が加わる国際間経済的侵略行為はほぼ姿を消すこととなった。ほぼと言うのは、ロシアのアフガン侵攻やクリミア制圧、中国のウィグル、チベットや南沙、西沙に醜悪な姿が残されたり、見られることによる。
このように、今、行われている紛争および起こしうる可能性を秘める国家がどこかを考えてみれば、平和安全法制の必要性にたどりつくと私は考えている。若者の間にも徐々にこの考え方が理解されつつあるように感じている。
戦争回顧のあり方には、日本が世界の中で最悪の枢軸国であったがごときを蔓延させる風潮があり、蔓延させようとする動きが中韓に限らず、国内にあるというのが、他国と比較して日本の特質となってはいないだろうか。そう思うのは私だけではないはずである。自分の国が、そんなに他国から批判され、信用されなくなることを望む国民が多いという意味では、日本は世界一かもしれない。大いなる皮肉だ。
過去の談話を否定せず、継承するとし、反省の姿勢を示しつつ、安倍総理はつぎのような文言を配した。
「政治的、外交的に、歴史を歪めることがあってはならない」
「私たちの子や孫、先の世代の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」
他のフレーズからも、戦後談話はこれで打ち切りにしたいという総理の想いを感じたが、皆さんはどのように受け止めたでしょうか?
国際的には、次の80年談話の必要性が問われることはないだろうし、(実際、今でも要求されているわけではないのだが、)マスコミやレッドレフティーの思惑次第、すなわち自虐史観をいつまで引っ張るのかということに尽きるのかもしれない。
最後の戦後談話。これでいいではないか。