5月26日の埼玉新聞が伝えるところでは、上田知事が「知事の任期は連続3期まで」と、2004年に自ら定めた多選自粛条例について、「誤りだった」と認識を改める発言をしたとのことです。
「多選には実害があるという私の観念論は誤りだった。多選されている方々に申し訳なく思っている。もし、実害があるのなら選挙で決めてもらえばいい」というのが詳細な発言内容のようです。
新聞では 「自粛条例と、それ以上に大事なことを、どうはかりに掛けるかを含めて熟慮中」 とあります。
これは、これは、身勝手な解釈変更と言わずして、なんといえばいいのやら。人間、だいたい理屈を合わそうとすると、どこかに無理が生じ、結局は「屁理屈」になってしまう見本と言えます。解釈変更と言っても、自らマニフェストに定め、それを守る意味で議会上程した条例に対するものであって、誰でもない、ご自分が切望して制定した条例なんです。
当時本議会で起立賛成した議員の重みなど意に介していないと理解せざるを得ません。中には亡くなられた議員もいらっしゃいますから、草葉の陰で怒っていることでしょう。
そもそも、自民党を過半数割れに追い込むと、県議選にあたって強気の姿勢に転じた知事が、それが叶わず、ここに至って、言うに事欠いて「観念論」という単語を持ち出したのです。条例制定ほど議会で重たいことはないのです。議会を説得してまでこの条例を制定したのは「信念」ではなく「観念論」だったのか! 信念を曲げるとは、さすがに言えないのでしょう。
自民党の過半数割れを成就できた場合には、知事はどう出たのでしょうか。当然、過半数割れを実現した時の目的はあったはずです。それはすなわち、6月議会で「多選自粛条例を廃止する条例」でも提出して、議会可決を謀り、4選出馬への大義名分をお膳立てする狙いではなかったのか? 東京のどこかの区でそうした事例もあったと聞きます。
しかし、現実のこととして、知事の狙いはそんなに甘くはなかった。
振り上げたこぶしを、どう収めるのかと思っていたら、4選出馬へのお膳立てを、こんな形でぶち上げる戦略に出た。誰かの入れ知恵なのか、はたまた自らのアイデアなのか。なりふり構わぬ4選出馬への前ぶり記者会見としか考えられません。
今回の発言は、「条例軽視」という別の問題を生んでしまいました。「それ以上に大事なこと」とは・・・条例以上に大事なことがあるのでしょうか。国会で総理大臣が法律以上に大事なことがあると発言したのと同じことです。
多選されている方々に申し訳ないというフレーズで、納得合意させられる問題ではありません。おそらく、多選されている方々も「今更、何を言ってるんだ!」という思いのほうが強いはずです。
さらにひどいのは、 「もし実害があるのなら選挙で決めてもらえばいい」という部分。これは、もう何をかいわんやです。熟慮中でもなんでもないではありませんか! ここで言う実害とは、権力志向、利権、癒着、さらにはマンネリといった項目のことですが、こうした実害は表に出ないことが多く、県庁職員ならまだしも、県民有権者にわかるはずがないんです。利権、癒着に至っては、表に出た段階で即烙印ですよ。
この言葉から判断できるのは、4選出馬を宣言している・・というか選挙ありきを訴えているとしか聞こえませんよ。開き直りとも言えますが、こういうのを我田引水というのではありませんか。
私は、ひと時、知事とは良好な関係であったと自認していますが、この軽挙妄動ぶりにはがっかりさせられました。思考の軽さというか奥深さを感じさせない我田引水発言。一般人ではとても思いつかない自己弁護な言い回し。
とどのつまり、なりふりかまわず次もやりたいということは間違いないようです。ならば、何をもってしてそれほど4選に思いをはせるようになってしまったのか。それほどまでに、知事という立場にはいいことが沢山あるということなんでしょうか? 継続とか改革などといったフレーズによる行政パフォーマンスを持ち出すのは、もはや通用しないところまできてしまいました。
私は、わずか県議1期、市議を通じても12年の議員生活で、政治の世界での苦労は知事の足元にも及びませんが、年齢的には知事と1歳程度しか違わず、何度かどん底を味わった人生経験から、一般社会での苦労は知事以上のものがあると思っています。言葉の重みに対する理解力に違いがあるように感じた次第です。
知事として一時は素直に尊敬もしていましたが、今回の一連の騒動および、そして、見え見えの子供だましのような一連の発言にはことさら残念な思いが募ります。これほど軽い人だったのか・・・・
厳しいことを言うようですが、このあたり、また書くことがあると思います。