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No.2314 45年ぶりの優勝旗

2013.04.06

 前号で長嶋さんへの思いを書いたばかりで、しばらくは更新したくない気持でいたところ、なんと浦和学院が選抜野球で優勝をもたらしてくれた。すぐに書込もうとも思ったのだが、やはり長嶋さんの余韻をもう少し残したかった。

 それにしても強かった。済美高校の安楽くんも素晴らしい選手だが、投打がかみ合った浦和に軍配は上がった。全員野球とはまさに今回の浦和学院のような戦い方を言うのではないだろうか。

 ここで、我が青春の思い出に少々お付き合いください。
 45年前・・・春夏通じて甲子園に初出場した大宮工業高校が、戦いの結果として小さな大投手と呼ばれることになった吉沢くんを擁して、あれよあれよの初優勝で大紫紺旗を埼玉に持ち帰ったのは昭和43年だった。記憶に間違いなければ、決勝戦は尾道商との一戦で3対2というきわどい接戦だった。 
 実は、その前年の夏の大会では、宮工に対して大高という略称で良きライバルだった大宮高校が出場していた。当時は大高が夏のベスト4になったりで甲子園常連校として県内きっての強豪高として全国に名が知れていた。
 その42年夏の県大会の決勝戦は両校がぶつかり、確か1対0だったと記憶している。その試合は受験生だった私も県営大宮球場で見ていた。その時の大宮高校のメンバーは今思えば強烈だった。甲子園でも優勝候補の一角に上げられたくらいだった。同年秋の第4回ドラフト会議では東映に1位指名された吉田誠をはじめ3人が指名されたのだ。また、早稲田で6大学首位打者になった金子・・・それから現在西武ライオンズの球団本部長として活躍している鈴木葉留彦(当時治彦)という西武では代打の切り札として有名だった選手で、1年生でファーストのレギュラーだったからプロに迎えられる人はやはり違っていた。ついでになるが、始まったばかりのドラフト会議は第1回の堀内から、2回が江夏、3回が平松、西本、5回があの田渕、山本浩二、冨田の法政3羽ガラス、6回が三沢高の太田と、今でも記憶に鮮明な選手たちが第1位指名をうけていた。なぜか当時の“野球へのときめき”を感じる時代だった。

 ちなみに、当時の県内強豪校として甲子園を争っていたのが、この2校と上尾、熊商などであり、さらには深商、所商といったところだった。公立と私立の立場は正反対だった・・・というか、私立高校がまだ少なかった時代でもあった。大宮高校と大宮工業は、その後もOB戦を定期的にやっていると聞いているが、皆それなりの年齢になっているので最近のことまではわからない。

 残念ながら、受験生の身ということで甲子園までは応援に行けなかったが、初戦はテレビにかじりついていた。4番のホームランなどで3対1とリード、報徳学園9回裏の攻撃で2アウトから3点取られてサヨナラ負け。最後のサヨナラはたぶん長い甲子園の歴史でも他に例がないと思うが、3塁ランナーのホームスティールだった。同点になった段階で浮き足立ってしまったのだろう。このあたりは高校野球のよく言われる怖さというものだった。
 この大会、隣県の習志野高校が初出場で優勝した。この時の優勝投手だった石井投手は早稲田に進学したが大成はしなかった。しかし、その後母校の監督に就任して数年後、再び習志野高校を優勝に導いた。その時の投手が、今ヤクルトの小川監督その人だ。野球の歴史は面白い。人生もいろいろだ。

 母校大宮高校の話に戻ると、この年は埼玉国体が開催された年だったが、甲子園大会の数ヶ月後に開催された国体高校野球で我が母校は優勝している。大分商、今治西などを破ってのことだったと思うが、さほどに当時の記憶はけっこう残っているのだが、甲子園初戦で負けた報徳と、優勝校の習志野と一戦交えたかどうかの記憶がまったくない。
 そして、これ以降母校の甲子園出場は果たされていない。
 しかし、今年は所を変えて「科学の甲子園」に出場したらしい。それもまた素晴らしきこと。

 
 ともあれ、浦和学院優勝おめでとう! ありがとう! 県庁に報告にくるのはいつだろうか。大紫紺旗にお目にかかりたい。
 長々とお付き合いくださりありがとうございました。