鳴き声というのは、聴く側のバイオリズムにもよるが、心理的に不快感を与えるものや心を静めさせてくれるものなど千差万別である。特に、夏と秋にしか聴くことの出来ない虫の音は日頃社会の喧騒にまぎれながら暮らしている私たちにとって一服の清涼剤となる場合が多い。ところが、そうした虫を食するとなると・・・はてさて巷の反応はいかがなものだろうか。
今ネットで、お笑い芸人がそれに対する忌避感をツイートしたところ、河野一郎消費者担当大臣から無言のブロックをされたというのが話題になっている。河野氏と言えば、一昨年の自民党総裁選前後からいきなりブロックという言葉で呼ばれるほど一方的にブロックする政治家として知られている。 今回の場合、虫を食すまでのことを考える前に食品ロスを少なくするなどの対応が先ではないのかといった意見だったそうだが、河野氏にすると異論は意見ではなく反論であり、それをされるのがお好きな方ではないようだ。これには、小泉進次郎議員も擁護する発言をしているが、この二人は中国製太陽光パネルの輸入でも相互理解している神奈川県選出の議員である。
それにしてもコオロギ食は既に徳島などの給食で試食するなど一般利用が試行錯誤されている。もっとも、徳島の場合はこの段階で各種クレームがあったそうだが、この場合のクレームは理解できないではない。なぜ、コオロギが食の対象になる必要があるのかというのは単純な不思議だ。しかもコオロギというのは種の総称でマツムシやケラもコオロギの仲間だ。キリギリスの仲間にはツユムシやクツワムシといった虫がいるが、その多くは鳴き色の豊さで私たちに心地良い夏と秋の夜を奉じてくれる有難い存在だ。しかし・・・それを食すとなるといささかスタートラインに近寄りがたい思いがするのはやむを得ないところだろう。スズムシ?? とてもとても。
私もイナゴの甘露煮は子どもの頃から食べてはいるが、たまーに気が向けば程度で積極的というほどではない。そもそも今は決して安価ではない。ところが、実はコオロギ食は既に私たちの食生活に入り込んでいるという。惣菜などに見られるが、クリケットパウダーという表記はコオロギの粉末だそうだ。場合によってはバッタパウダーという成分表記もある。イナゴは姿そのままだがコオロギはパウダーに変身するようだ。こうなると、前述したように、コオロギ目に属する虫ということで、いったい何という名前の虫だかはわからない。この場合栄養素としての表記ではないと思うが、河野大臣はひょっとするとタンパク源などと発言されているかもしれない。
食文化に虫が入るとなると、心構えを変えなくてはならないと今のところは抑制心が働くが、人はいつの間にか慣らされるもので、当初薬のように感じたコーラが徐々に茶の間に定着してまだ70年足らずなのだから、コオロギ食も結局は慣らされる時期が来るのかもしれない。鳴・ら・さ・れ・る、前に慣・れ・ろの精神を河野大臣は主張するだろう??? どこぞでコオオロギの養殖も進むのだろうか。調べる気持ちが湧きません。
生き物は食に欠かせないものが多々あるが、新たに導入されるとなると、やはり名前が持つイメージを払拭しないと受け入れるのはなかなか難しい。そうまでして主食材が減っていくとも思えないのだ。ナマコやサメは通常食になっているが、アジア広域で見れば、サル、ツバメ、イヌなど・・・・中国ではコロナの原因になったとされるコウモリまでが食文化かと思うとゾッとする。もう30年前ほどのことだが、上海の朝市でヘビを籠網に入れて一匹あたりを計り売りで売っている光景に出くわしたことがある。ゾッとするどころの話ではなかった。キモイ話で申し訳ありませんでした。
虫が好かないとは虫にさえ嫌われるという意味だが、その虫を食するのかー、いやいや、どうにも虫は好かないなー。
と、ここまで書いてふと横井庄一さんや小野田寛郎さんのことを思い出しました。お二人は戦争が続いていると信じ、敵兵に見つからないように密林ジャングルを彷徨しながら、食せると思うものは何でも食べたという。それだけでも尊敬に値する人なのです。トルコ大地震で100時間という限界値を超えて生存されていた人は自らの小水を飲んで救援を待ったそうです。「生きる」為には凄絶な覚悟があるということですね。