日増しに気温が低下し、体調管理に気を遣う時期になってオミクロン株の濃厚接触者の不明度増加という事態が加わり気の抜けない師走となっています。
世界を見ると、良くも悪くも、悪くも中国が話題の中心にいる昨今です。北京五輪への各国の対応が微妙な時期に差し掛かっていますが、日本の方針はどうも煮え切らない見解でここまで来ています。総合的に判断するという林外務大臣の発言は作日のことです。五輪となると問題は選手のことになるわけですが、考えるべきは五輪は平和の祭典だということかと思います。だから、政治問題や思想イデオロギーを持ち込むべきではないというのはあるにせよ、開会国にその平和をナイガシロにしている現実がある場合どうなのかと考えることも間違いではない。そもそも世界平和論を語るならば、国家間の軋轢や特定国の領土拡張覇権主義が紛争のマグマとなって戦争を引き起こすと考えれば、政治問題も思想イデオロギーも平和に関わるものであって五輪にも無関係ではない、いやむしろ大いに関係があると考えられます。
そこで、思い出すことは4カ月前の東京五輪です。選手の感情を考えることなくコロナを盾に反対運動を続け、開会式会場でも大規模な反対プロパガンダを繰り広げていた思想イデオロギー運動を特定の反日メディアは当然のことのように伝聞しつづけました。それは、まさに政権批判ありきそのものであったと思います。まだ数カ月前のことですが、野党議員の国民の命を無視していいのかといった類の発言が新聞の一面に掲載されることも少なくありませんでした。ちょうどコロナ感染がワクチンのおかげで沈静化しはじめた頃のことです。
結果として、五輪は成功だったと感じている国民が約7割にのぼったことが示され、政府判断は間違ってはいなかったわけです。
そこで最近感じることは、開会式が始まっても現地で五輪反対運動を行っていた左派系思想家たちから、中国のジェノサイドに対して大きな問題提起が為されることはなく、静かになっていることが不思議に感じられてならないのです。
この問題は、確かに五輪とは関係の無いところで中国の持つ民族差別運動にどう海外が反応するかということですが、結局、中国に反省も生まれない状況で平和の祭典を開催する資格があるのかという点を指摘されており、これもまた当然のことでしょう。日本では昨今、いろいろな事象を差別問題化して政治的プロパガンダに利用する風潮が高まっているわけですが、ならば、全体主義の中国やロシア、ベラルーシなどで行われている「命を軽んる統制国家」に対しても声を上げるべきではないかと思うのです。国際社会は情報のスピード感によって正に世界は一つと考えるべき時代でもあろうと。
このように思うと、日本の差別批判思想は状況と相手次第で使い分けるご都合主義の身勝手なものだと言わざるを得ず、こうした差別イデオロギーの実態こそが中国的体質を持っていると感じる次第です。
いま、テレビは高市早苗政調会長の予算委員会質疑がされているところです。経済問題に続いて中国問題を指摘した質疑をされています。ジェノサイドに限らず香港しかり、中国・台湾問題も対岸の火事ではなく、日本として中国に自由と人権の観点からはっきりとした意志を示す時ではないかと思います。中国に綺麗事は通用しない。そう感じるこの頃です。
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No.3506 差別批判に差別あり
2021.12.13